秋に、オックスフォード大学出版局(OUP)と数研出版主催の中学高等学校教員向けセミナー2019に登壇することとなった。私の出番があるのは11月17日の東京会場と24日の大阪会場。そこで多少触れるであろういわゆる洋書教材の話。

静岡県の高校では副教材として洋書教材を採用しているところが多く、私自身も大学の授業でOUPやCengageのテキストを長く使ってきた。なぜかといえば、端的にいって、教材としての出来が良いからだ。ヴィジュアル面でのレイアウトの力もさることながら、コンテンツや構成の面で学生の知的好奇心にある程度訴えるだろうと思えるものが多い(例えばこちらを参照)。某文法ドリル的教科書に辟易とした高校の先生がたが、できるだけ多くの英語にin contextで触れてもらおうとして、あるいはパフォーマンス課題につなげやすい構成の教材を求めて、洋書教材を選ぶに至るのはある面で当然という気もする。

とはいえ私はOUPの回し者ではない。上記のセミナーは、参加される先生がたからお金を聴取する類のイベントではなく、趣旨と依頼内容が私にできる貢献と噛み合っていて、スケジュール的に可能だったからお引き受けしたまでである。下記に記すような実例を紹介したりもするが、OUPの教材宣伝マンになるつもりはない。

国内の検定教科書に同情した補足を一つしておけば、教材の出来が良い理由の一つは単純に価格だ。検定教科書は、「教科書の発行に関する臨時措置法」を根拠に定価が決められており、2019年度使用教科書については、たとえば「英語表現Ⅰ」の定価は577円である。それに対して洋書教材は自由に、3,000円程度の価格をつけられるわけだから、作成にかけられるコストが全然違う(しかも、良い面も悪い面もあるにせよ、世界規模の市場)。別の面から言えば、副教材として高校が洋書教材を採用する時、その負担は生徒・保護者に課せられている。お金をかけない(英語)教育というのは幻想だが、「学習するなら金をくれ」と言わんばかりに経験・勉強に対する対価を直接的に要求して憚らないフラッグシップっぷりが(公教育における)英語教育の生々しい粗野さだ。今はその指摘のみにとどめ、この記事では洋書教材の内容・運用面に目を向けたい。

比較的明確な構成原理やコントロールされた語彙レベル、分量のもと、専門のライターによって書かれた洋書教材は、いわば食前酒からデザートまでの高級コース料理のようなものだ。呼び水的な会話を聴いてみたり学習者の日常的経験を訊いてみたり、各ユニットは食欲をかき立てるような軽いコーナーから始まって、前菜はメインディッシュのためにあり、メインディッシュの振り返り的お口直しをデザート的コーナーが担う。大半の洋書教材は品数も豊富で(5品で十分お腹いっぱいになれるのに7品、9品出てくるイメージ)、コース料理よろしく、一つひとつを丁寧に味わっていると各コーナーも相当ボリューミーに感じられる(さてボリューミーは英語でなんと言えばいいでしょう?閑話休題)。大学の90分の授業でもそう感じるので、高校の50分の授業で用いるとなればなおさらだろう。結論から言えば、高校で洋書教材を用いる際、先生がたは、このコース料理の特性を十分に把握して、自身の授業スタイルとうまく折り合いをつける必要がある。

私自身は教材自主編集が当たり前の文化で育ち、「教科書を頭からそのまま使う」という発想が元からないので、自身の授業で使うにあたって洋書教材だから特別苦労したということはない。もちろんこれは「授業づくりに苦労したことがない」という意味ではない。これまで、消化不良の声に応えて(例えば各ユニット2パートある内の1パートを)丁寧に進めてみたら半期で実質的にテキストの半分しかやっていないことに不満の声が出たり、その不満に応えて駆け足で全てのパートをこなす展開にして半期で一冊終えてみたら消化不良の声が出たり、ということは何度も経験している。しかしそれは専門の授業などでも大なり小なり抱え続けていることなので、洋書教材だからという問題ではない。簡単にうまくいく授業づくりなど無いし、集団が変われば生まれる展開も変わり、それに応じてテキストの使い方も変わるわけで。

一方、ここ数年、授業づくりに伴走をしてきた高校の先生がたは、折り合いをつけられるようになるまで洋書教材の扱いにかなり苦労していた。気づかされたのは、私の「自主編集」のやり方と、先生がたのそれは様々な点で違うということだ。まず私は、学生が面白がってくれそうなところや引っかかるであろうところのみを扱い、それ以外のところは遠慮なくスキップする(授業後に自身で取り組めるように何がしかのフォローはするとしても)。具体的には、途中に内容確認の問いが7問あったとして、予想の状況を確認してパッセージに照らした解説は2問のみにとどめ、あとの5問は流したりペアやグループでの確認に任せてしまったりする。この軽重がつけられないと、各コーナーのボリューミーさで学生・生徒は集中力を失いがちだ。さらに私は、学生に合わないと思えばメインディッシュの内容自体を大きく変えることもあるが、食前酒や前菜との関係は考慮する。だからメインディッシュの変更の影響が大きくて前菜との距離が開きすぎると思えば、逆に橋渡し的に料理を足したりする。

ここで重要なのは、一部スキップをしたり変更・追加したりしても、基本的にコースの順番を変えることはあまり無いということだ。それまであまり意識したことはなかったが、基本のコース・メニューで違うなあと思うものはそもそもテキスト選定の時点で選ばないので、それなりに見通しと納得を持って選んだ以上(15回のスケジュールと90分の大まかな流れは初回の授業で学生に必ず説明する)、デザートを最初に持ってきたり食前酒を最後に回したりしないのはある意味で当然のことだ。つまり、私が「『教科書を頭からそのまま使う』という発想が元からない」と言う時、力点は「そのまま」にあり、「頭」の頭らしさについては認めて扱っているということだ。

例えば、Q: Skills for SuccessのListening and Speakingで言えば、各ユニットの冒頭にQ Classroomというコーナーが用意されている。教師と数人の学習者がある程度予定調和的な会話をするものだが、そのユニットを扱うとすればこれは絶対に飛ばさない。なぜなら、この会話が、この後のリスニングの背景知識や視点を与える内容になっていると同時に、やりとり自体は予定調和的であるものの、後半のUnit Assignment等のモデル・ダイアローグにもなっているからだ。そして、何も準備なしに「どう?」とか「話してみて」と言われても学生は取り付く島がないが、Q Classroomの概要や特定の情報を聞き取ること自体は誰でもがエントリーでき、聞き取って共有した内容を自分に引きつければ「どう?」にも答えやすくなる。もともとQ: Skills for Successの良さは、レベルによって抽象度の違いはあれど、「スポーツの何がどう楽しい?」とか「人に良い印象を与えるってどういうこと?」といった、どれも比較的身近な生活経験をベースにし得る共通のトピックで構成されているところにある。だから私がすべきだと考えるのは、このQ Classroom全体を飛ばしたり順序を変えて後ろに持っていったりすることではなく、Q Classroomの会話を複数回聴く際に、学生たちがその時点で持っている生活経験では答えにくい問いをスキップしたり日本のコンテクストに沿った問いに置き換えたり、むしろ手がかりとなる発問を足したりして取り組みやすくすることだ。

高校の先生がたが洋書教材を自主編集する場合、洋書教材のボリューミーさをなんとかしようと、あるいは自分流に味付けしようと、前菜なしにいきなりメインディッシュに突入したり、提供の順序を大きく変えて前菜をメインディッシュにしようとする、といったケースがまま見られた。検定教科書の際はそうしたほうがいい場合も少なくなく、そのやり方をそのまま持ち込んでいるとも言える。そうした変更が絶対にダメというわけではない。しかし、たとえば前菜のジュレ的な何かをメインディッシュだと言われた時、生徒はどう思うか。水もスープも一切口にせずに、極厚の肉汁少なめステーキ肉をいきなり目の前に置かれたら食べきれる生徒がどのくらいいるか。そういう風に考えてみれば、それを一連のコース料理として食べる側に納得して満足してもらうためには、相当の技量、あるいはストーリーが必要だということがわかる。逆に言えばコース料理は、一旦注文して座っていれば順に皿が届けられて食事が完了できるメリットがあるが、他方で、好きなものを適当に頼んで、テーブルに並んだものを好きにつまむ居酒屋方式と比べれば融通が利かない。

つまり、高い程度に構造化されていることは洋書教材のメリットでありデメリットでもある。メリットを最大限に活かすためには、そのユニットでどういうことを考え、どの技能をどういう風に発揮してほしいか、発揮できそうかが見えて(可能な限りの重み付けができて)いる必要があり、デメリットを補って自己流のアレンジを成功させるには、その無理が無理でなくなるような、通常の教材を用いる以上の高い授業スキルが求められる、というわけである(そして私自身は、ついに教養英語についてはテキストの使用自体を卒業してしまったのだが)。

セミナーで洋書教材に触れる際はもう少し先に進んだ単元構成の話をすると思うので、その前提の話としてこの記事を書いた。