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いつも多くを学ばせてもらっている中学校の先生から、「英語の授業において板書はどうあるべきか」という質問を受けた。日頃から、生徒が可能な限り豊富に英語を聞き話し読み書くことができるよう、教材研究を重ね、ワークシート等、授業に必要なものは積極的に用いている先生なので、板書法を尋ねているのではなく、訊きたいのは「他教科で言われるような意味での必要性はあるのだろうか?」ということだ。

私自身、授業はスライドを用いて進めるので、黒板は(グループ単位で毎回変える)座席配置を書くぐらいにしか使わない。そもそも板書法を学んだこともないし、このトピックに関して先行研究をあたったわけでもない。内容抜きの教材・教具論に意味がないという立場なので、どちらかと言えばそういうテクニックの話は敬遠してきたぐらいで、英語科教育法などの授業でも明示的に扱ったことはない。しかし言われてみると、原理的に考える機会もなく、なんとなく教わったように(あるいは自己流で)使っている英語教師は多いのかもしれないと思うに至った(試行錯誤を経て自分なりのこだわりを持っている人も多そうだが)。質問を受けて考えたことをまとめてみる。

blackboard

黒板の使い方を上図のように分けてみる。現実の授業を考えると、必ずしも連続的なもの、相対立するものではないと思うが、ここでは便宜的に区分して考えてみよう。なお、ここでの「板書」はチョークで書くという行為だけでなく、模造紙や写真、実物を掲示する行為も含むものとする*1。

左側横軸(as process/product)は、その板書が主として何を目的としているかを分けている。「過程としての板書」とはつまり、板書する順序や流れ、ペースが重要なものとみなされていることを意味する。数学の授業で言えば、代数で式を立て展開していく場合や、幾何で点や角度を確認しながら作図していく場合。国語や外国語で、文字の書き順を見せるための板書もこれに当たる。「結果としての板書」は一方、板書の結果自体が重要な場合。これまでに出てきた漢字を部首で束ねて提示する際、その書き順は問題にはなっていない。歴史の授業で言えば、出来上がった状態の年譜や相関・因果関係図のようなもの。

左側縦軸(proactive/reactive)は、その板書が授業に占める位置、あるいは授業の他の要素との前後関係を分けている。「事前対応的板書」は、その後の解説や活動のために黒板を利用する場合。やっぱり数学がイメージしやすいのだが、考える筋道を限定するための条件を先に提示したり(process)、先に公式を与えて問題に適用してもらったり(product)する時の板書。「事後対応的板書」は、問題に答えたり質問を受けたり、授業で何かをやってその結果を書き留めておくための黒板利用。グループで出た様々な意見を出してもらったり(process)、問題の正解やまとめの図表を示したり(product)することが考えられる。あらかじめ板書計画で想定しておくことも多いが、授業展開によって板書内容が変わってくるという意味で事後対応的なものとなる。

実際の授業では「年譜が最終的な結果としての板書であると同時に、与えられた事実をもとにそれを作っていく過程が授業の中心的な活動である」とか、「プリントに記載された問題の全てまたは一部を、誰かに答えてもらうつもりで、生徒が作業している間にproactiveに板書し、指名した生徒の答えを正答と照らし合わせながら確認し、正解・不正解をproductとして残しておく」とかいった展開がよく見られるわけで、実際には上記の板書分類は交じり合っていることのほうがむしろ多いだろう。しかし板書が自己目的化してないか、目的や授業に占める位置をときどき振り返って捉え直しておく意義はそれなりにあると思う。

もう一つ、図を3次元にしたくなくて右側に置いたのは、それが見せるための板書であるのか(for looking at)、書かせるための板書であるのか(for copying)という区別。これも実際には見せると同時に書かせていることが大半だろうが、冒頭の先生の質問に対する鍵はまずそこにあるように思う。ピクチャーカード等を貼る場合はもちろん、単語や文を書く場合でも、授業者の意図としては見て納得してもらえればよく、それを生徒に書かせることが目的ではないという場合も多い(メモを取る取らないは生徒の自由だが)*2。

以前に「板書によって生徒がノートを書くペースを作っている。板書しないと生徒が授業についてこれない。ノートを取ってないとテストに対応できない」というような「板書擁護論」を何度か耳にしたことがあるが、私には全てが逆立ちした話に思える(基本的にスライドと配布資料のみで授業を作っている自分の経験に照らしてもそんなことは全然ない。中高生への授業でも、私が扱った内容に関する限り板書なしで不都合があったことはない)。「その内容をノートに書くことがなぜ必要なのか」が問われるべきだし、テストや評価のためにノートや授業があるわけではない。その内容に関するノート・テイキングに必然性がないのであれば、教える側の手前勝手なペースに合わせずに済むように授業を変えればよく、その授業に即した評価法を講じればいい話だ。

以上を踏まえて、英語の授業の場合について考えてみる。

Proactiveな黒板の使い方はどうか。先に文字を書くと生徒はそれを読もうとしてしまうから、聞く話すを中心とする授業ではそもそもproactiveにあれこれ黒板上に言語化するのはあまり良い選択とは言えない。あらかじめpresentする内容が決まっているPPP型の授業では、先に重要表現を提示したりモデル対話をproductとして示しておくことがあり得るが、文字指導や英文の構造を分析的に解説するような内容でなければ、教師が書くprocessを生徒に見せる、あるいは書かせる意義は薄いので、模造紙等で予め用意しておいたものを貼れば済む。視覚化された対比やまとめも同じ。英文の構造を分析的に解説するような内容であっても、聞いたり読んだりする文を逐一書き出して解説するのは、まとまった内容の聴解・読解のプロセスとしては不自然だ(特に、holisticに聞く・読むという行為にまず従事してもらいたいと考えているのであれば)。たくさん書いてたくさん書かせれば勉強した気にはなるかもしれないが、「気になる」だけ。生徒がつまずくポイントに絞った解説のみで十分だ。ざっくり言えば「見せて理解させたい場合の使い方」と言えようか。

現実的な問題として考えるべきは、その準備に時間を割くほどの重要性がその板書=掲示にあるかどうかだろう。教具の準備時間に余裕がなければパッと板書して済ませてしまうという選択が全くないとは言わない。しかしproactiveな使い方であればあるほど、事前の板書計画をきちんとして、生徒の思考の流れを邪魔しないようにすることが望ましいから、「パッと」整理された板書ができるかどうかはそれなりの技量が問われるところだろう。英語の授業の場合、視覚化されたものをヒントとすることが多いので、カードやラミネートされたシート、写真を用いるとすれば事前の準備に時間を割くことが不可欠になる。

ではreactiveな黒板使用はどうだろう。学生の模擬授業で、聞き取りの活動をして生徒役に口頭で答えてもらっただけで次に進もうとした場合によくコメントするのは、その生徒が綴れ(てい)るかどうかを黒板で確認したほうが良いということだ。もちろん段階と目的によるが、ワークシートに穴埋めで単語を記入させたとして、それを口頭で言えたからといって正しく綴れているとは限らない。机間指導の際に見つけて手当てできればそれでもいいが、全員は無理だろう。黒板で確認することで、他の生徒も自分の綴り間違いに気づける。

Reactiveな使い方で黒板がさらに活かされるのは、open-endedで回答に多様性が期待できる問題や、ペア活動、グループ活動で出てきた表現や意見を拾って全体でシェアする場合だろう。それが(graphic organizerのような)図表を通じて整理されていくのであれば大変有効だろう。「答えの決まった問題に対して、指名された生徒が黒板に答えを書いていく」という授業展開は(英語の授業では特に)そもそも好みではないが、その場合も、一方的に教師が解答を言ったり書いたりして終わりにするよりは、誤答であれ正答であれ、生徒が取り組んだものを黒板上にproductとして集めるほうが良いとは思う。つまるところ黒板は対教室全体で用いられるデバイスだから、全体で共有する価値がある内容に対して使いたい(当然そこに時間を割くほどの内容かどうかが問われる)。生徒がノートやワークシートにそれを書く必要があるかどうかとは一応別のことだけれど、proactive useとの対比でざっくり言えば「書かせて、全体で共有したい場合の使い方」と言える。

この点にかかわって、英語指導の多くは、アセスメントやフィードバックが個別的なものにならざるを得ないということも考慮すべきだろう。特にwriting指導の多くの場面では、内容面であれ言語面であれ、フィードバックは個別に返すことになる。複数の生徒に共通する誤りをreactiveに解説するのは有効だろうが、添削結果は基本的に当該の一人に対するものであり、その生徒に届かなければ意味がないからだ。そこに黒板の出番はない。英語の場合、数学のように方程式を順を追って展開して解く過程を見せるであるとか、理科のように実験結果を共有して結論をまとめるといった目的での黒板の必要性は薄いと言っていいだろう。

それでも敢えて活用を模索するなら、「見せる」ための板書を、単に話をわかりやすくするためだけでなく、もっと生徒の思考を促し、振り返って考えたこと・感じたことを書けるようなものにしたい。

その意味で、黒板での(作業・活動前の)目標の確認・共有は英語の授業でもっと行われてよいと考えている。目標はなるべく具体的なほうがよい。ワークシートに記載しておいてもいいし、生徒自身が目標を立てる部分もあってよいのだが、その作業・活動で求められていることを教室全体で確認し、自分なりに納得した上で取り組んでもらいたい。マップとしての板書。そうしないと、作業・活動が散漫になったり、振り返りがてんでばらばらなものになったりする。極端に言えば、何らかの形で目的的に取り組んだ作業・活動の結果があって、目標に照らして考えたこと・感じたことを手元で書いたり他の人と話したりできるのであれば、授業で「先生が板書したことをただ写す」という作業は(ノートであれワークシートであれ)そもそも必要ないのではないかと思う。

生徒がそういう学び方を最初から身につけているわけでは勿論ないので、橋を少しずつ架けていく必要はある。TBLT論者の人は嫌うだろうが、私はそのために対話の一部や、使い勝手の良い方略的な表現を黒板に掲げておいて、活動中に困ったらいつでも頼れるようにしておくのはアリだ(作業・活動があらぬ方向に行ったり停滞したりするのを防ぐという意味でむしろタスクの目的を助ける)と考える。コンパスとしての、みんなのたいまつとしての板書。それが活動をつまらなくするかどうかは、要するに旅の目的と内容次第だ。マップとコンパス・たいまつがあっても、目的地にたどり着くスピードは違うだろうし、ルートは多様であって良い。同じルートでも見える景色に対する感じ方は違うだろう。こちとら1人、2人を相手にしているわけではないのだ。

目指すところがproactiveにマップとして示され、そこにたどり着く助けとなる枠組みや素材が提供され、reactiveに多様な旅の行程や結果が共有される(もちろん個別にすべきフィードバックは個別に返されている)。板書論としてここまで述べてきたが、教材一般の話としてそういうことを考えた授業づくりをしてくれているのであれば、黒板が主に見えようとワークシートが主に見えようと本質的な違いはないだろうと思う。質問をくれた先生を含め、既にそういう風に授業をしている先生は複数知っている。探せば結構いるだろう。それ以上に求めることがあれば前に出て板書してください。

 

 

*1 複雑になるので図に加えていないが、言語化する(textualize)のか、視覚化する(visualize)のかというモードの違いも区別できる。

*2 もちろん逆も然りで、教科書やハンドアウトでproductだけで済まそうとすると、途中のprocessが見えずに生徒が困ることがよくある。見せただけで分かっただろうと思っていると、全然生徒のほうでは腑に落ちていないということもよくある。

本論とは関係のない話だが、学会等で、スライドをひたすら書き写そうとする人が現れて発表者が「あとでスライドお渡しします」と気を遣うことになる例の現象も、この区別の認識がお互いですれ違っていることで生じると言える。