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献本していただいたのは5月だというのに,すっかり遅くなってしまった。改めて御礼申し上げるとともに,非礼を詫びる次第。

顔と声を思い浮かべながら読んでしまっているから書評にならないかもしれないが,先を走る教育方法学者の闘いの記録を読む思いで拝読した。個人的には第7章の「学びの共同体」の課題の指摘や,第8章を特に興味深く。例えば,

面白い教材とは何かを考えるとは,人が何を面白いとみなすか,その要因を考えることなのである。教材をつくるとは,学ぶ対象にしてもらえるように客観的に存在している素材を選択・加工することである。だから,提出される素材は客観的だが,学び手の意識と連動し,学習活動の手がかりとなる課題や問いと強い結びつきを持っている(p. 138)。

という一節は,教育内容・教材構成を中心に据える教育方法学研究の定義にも読める。そして,これまで重視されてきた教材化の「モメント」を端的に整理しつつ,本書の問題関心に即して一歩踏み込んだ提案をしている。最近,こういう本を読んでいなかったので(教育方法学者の書いたものを読んでいないだけだが)その姿勢に素直に感銘を受けた。

ただ,英語教育の場合はそのまま引き取れないなあ,難しいなあと感心する以上のモヤモヤが頭の中を漂った。モヤはまだ晴れてはおらず,うまくまとめられる自信はないのだが以下,まとめと雑感。長文容赦願いたい。

本書はまず,「現代社会における授業をめぐるリスク」として以下の3つがあると述べる(pp. 12-16)。

  • 教育の商品化によるリスク
  • 教育の政治化によるリスク
  • 社会・経済的な階層的格差と関わる(階層化)リスク(現在の学習指導要領や教育の仕方そのものが,階層的弱者により不利に作用するリスク)

同時に「授業内部のリスク」,つまり教育実践の側が授業づくりに関わって抱え続けているリスクとして,

  • 教える内容が虚偽であること
  • 判断と価値の強制

があることを指摘する。たとえ教科書検定制度があっても「定説となってから掲載されるために,教科書に掲載されるころにはその内容が古くなって虚偽を抱え込むという危険性」があり,さらには「教科書検定そのものが虚偽を掲載させるリスクそのもの」であり,他方で「何らかの教師の錯誤によって虚偽を教えてしまうという事態」もある(p. 17)。

タイトルが語る通り,本書は「原子力発電と放射能の危険性」という授業プランとそれをつくる過程を中心に,リスク社会的に見ることを通じて授業(づくり)観を変えていく必要性を訴える。

第1章では,ウルリッヒ・ベックのリスク社会論が紹介されている。ここで特に重要なのは,

  • 未然原則:リスクの因果関係や発生確率が科学的に解明されている場合に,リスクの現実化を未然に抑える対策を取ること
  • 予防原則:因果関係の科学的証明がなくても,深刻なリスクが考えられる場合には,事前に予防措置が取られなければならないという原則

というリスク社会への対応の考え方の違いの対比である。そして予防原則という知見は,「教師の教材研究にも,教師に降りかかってくる個人化のリスクに対しても有意義な示唆を与えている」(p. 25)。少し長いが引用する。

 「予防原則」に則って考えると,科学的研究の評価が複眼的になり,教材研究において科学的成果を探す時のまなざしが変わる。教材研究をする時に,「予防原則」の観点から科学や技術の到達点を見ることになり,「科学的根拠がない」と一方的に議論を打ち切る見地こそ,逆に,本当に科学的かどうか検討することが必要となる。

こうしてリスク社会における教材研究は,今までとは異なることになる。これまでなら,権威にすがるか,公認された科学の到達点を確認するか,最新の科学的な研究成果に学んで,それだけを土台に教えればよかった。具体的には,教科書通りに教えるか,もしくは単一の「新しいとされる」研究,「根拠があることになっている」知見に従って教えていればよかった。

しかし,そうではなくなった。通説を明らかにするとともに,それと対抗する研究や知見を積極的に探すことが必要となったのである。リスク社会における教材研究は,明らかな間違った認識や研究結果も参照するために探すが,真理についての複数の見地も探す教材研究に変換することになる。これは,真理観の転換を内在させているが,科学そのものを否定してしまう単純な「反科学論」などではない。間違いに対して,ただ一つの正しい結論を明らかにする教材研究から,複数の正しいとされる結論を探す教材研究へと発展させる必要があることが明らかになるということである(p. 29)。

英語を取り巻く社会・経済的状況や,巷に溢れる外国語学習に関する「通説」に照らして見れば上の指摘はおおいに首肯できる。世界の英語使用の現況やその多様性,あるいはその政治性・商業性の「リスク」に,これまでの中学校・高校の英語教育(行政)が十分な対応をしてきたか少し考えてみるだけでも,いかに「未然原則」の考え方に支配されていたか,あるいは今も支配されているかが分かる。

ただ,具体的な授業構想に踏み込むと,以下の主張には理念としては頷けても,英語教育においてそれを実現するのは(他教科以上に)容易ではないことも分かる。どのレベルかにもよるとは思うのだが。

教材研究によって,複数の知見が明らかになっていた。今度は,その中身を事実(Fact)と,判断(Judgment)もしくは価値(Worth)の二つに仕分ける。

そして,これらを取り上げるときにまず,事実を重視することである。(中略)

事実を重視するのは,判断や価値に関わる点において複数の見解となることが多いが,それらの相当数は事実誤認によって判断の違いを生んでいることがあるからである。事実に基づかない,根拠のない判断は,個人的な思いとしては自由だが,説得力を欠くことになる。事実を踏まえた判断が行えるように育てることが基本だからである。これは,当たり前のことなのだが,学校教育の中では事実を確認しないままに判断が定まってしまっていることがある。例えば,主人公には肯定的に共感することに定まっている国語学習,尊敬することが決まっている歴史の人物学習,身の回りのエコ活動に取り組むことがよいとされる環境学習など,判断が固定している授業は多い。

そうではなくて,事実を踏まえつつ,子ども自身が判断をする場面を授業に組み込むことが構想の一つの柱となる。

なお,事実誤認を含んでいたとしても,子どもの判断は尊重される必要がある。今たとえ子どもが誤認の理由を十分に説明できなくても,その判断や価値を表明することは権利であるばかりでなく,子どもの判断にはそう判断するだけの別の経験に基づいている可能性があるからである。

したがって,授業の構想としては,事実を踏まえることを基本とする局面,判断や価値の自由を保障しつつ,それらを表明・議論する局面の二つを設定することとなる。これは,一方では特定の判断を教え込む授業を批判し,他方では事実を羅列するだけ,あるいは解釈だけする授業を批判するものだからである。あるいはまた,子ども自身による価値判断を避けた形の授業を批判する構想と言うこともできる。特定の判断を事実上強要する誤りを越え,様々な価値判断の妥当性を吟味する機会を奪ってしまうことによる精神の貧困からの回復をめざす構想なのである(pp. 31-32)。

まず事実を重視することが重要なのは確かにその通りだ。以前,亘理(2012)に書いたことだが,比較構文のthan/asの後の代名詞の格の扱いを例に挙げる。

古い英語やフォーマルな書き言葉では主格が用いられ,話し言葉では目的格がほとんどを占めるので,教科書・文法解説書の多くがこのことに触れている。しかし,英語学の議論においても,このような例でのthan/as以下を節とみなすべきか直接補語とみなすべきなのかについては確定的な結論が得られていない(Huddleston & Pullum, 2002, pp. 1114-1117)。つまり,He is smater than me.のmeはthan I am (smart)のamが省略されIが慣用的にmeに変化したものなのか,それともto meのmeのような構造なのか言語学的な事実は定まっていないのだ。このような言語事実に対して,主格と目的格のいずれかを教えるべきだとして一方のみを提示するとしたら,それは事実に反した扱いだと言える。同時に,実際の用例ではthan/asが主語・動詞句を伴う言い方(e.g. She loves the dog more than I do.)がごく一般的であるのに対して,中学校の教科書では単独の代名詞か,場所や時間の副詞(句)しか登場しない。これを問題とみなす場合,上記のような事実をまず重視することが重要だろう。

「事実を踏まえつつ,子ども自身が判断をする場面を授業に組み込むこと」に関しても,私自身は語用論的選択を中心とする文法指導(の教育内容・教材構成論),つまり具体的な文脈の中で語用論的に適切な使い分けを問う問題を提示することを通じた文法概念の形成を研究しているから,それに照らして読めば「然り!」と膝を叩く。

ただ一方で,中学・高校の英語教育においてその場面を用意することができる時間は決して多くないだろうとも思う。現実として英語の授業の多くは「事実を踏まえることを基本とする局面」に終始せざるを得ないからだ。上述の英語学における論争の事実自体を学習者に提示し考えさせるべしと考える英語教師はいないだろうし,さらに問題を広げて言えば,英語で読んだり聞いたりする文章・対話にも国語学習と同じ問題は指摘し得る。もっと根源的なところまで行くと,ペアやグループでの言語活動を組織しようとした時,それへの参加を拒み独りで学ぶことや沈思することを選ぶ生徒がいたとして,英語教師は果たしてそれを許容(した授業づくりを)できるだろうか。

教科ごと,分野や単元ごとの,「事実を踏まえることを基本とする局面」と「判断や価値の自由を保障しつつ,それらを表明・議論する局面」の特徴を素描していく必要があるだろう。

「原子力発電と放射能の危険性」の授業プランに関する章も学ぶべきところは多いが,ここでは第7章に飛ぶ。第7章は,「どうしたら,切実な問いかけをもって人が生み出した知識や技能を学ぶことができるのか,教師の側から言えばその問いかけに応えうる中身を子どもにどうしたら啓いて見せることができるのか」を考えることを課題としている。「これを考えようとするのは,知識所有量を学力とする傾向が一方にあり,他方には『がんばります』と定型の反応を強い,『意欲的』なふるまいを示さなければならない言葉の規制が学校にはあるからである。時には心情的な『学び合い』だけが先行して,対象そのものの真理性が検証されないで終わることもしばしばあるからである」(p.122)。

そこで,

  • 対象認識:モノそのものに関する認識
  • 関係認識:学び手にとってのモノの意味や価値付けなどの関わり方に関する認識

という,人の認識にある2つの区別に言及し,「学びが成立するとは,対象に関する認識を形成することであり,同時に,対象と学び手との関係認識をつくり出すこと,この二つが生まれることである」と述べる(p. 123)。

 この二つは区別されるべきだが,切り離されても困ったことが起こる。

対象認識としての知識だけでは,学習者あるいは人間との関係が見えなくなる。意味がわからないままに知識だけ知っているなどということが起こりかねない。逆に,学習者の興味・関心という観点が狭く理解されると,卑近な教材ばかりが選択され,対象の本質的理解が軽視されることがある。あるいは,認識が「好きか嫌いか」といった抽象的な関係に解消されてしまうことがある。両者は,結びあって理解されていく必要がある。

関係認識という場合,対象の人類一般にとっての意味と,特定の個人にとっての意味は同じではない。学ぶ対象との関係は,個人の位置と体験によって変わる。だから,関係認識は,人によって異なる(p.124)。

というわけである。対象認識と関係認識の関係は,英語教育の場合,三浦・中嶋・池岡(2006)の「コミュニケーション活動における『意味』の4レベル」と対応させることもできるだろう。レベル1やレベル2のコミュニケーションでは対象認識が主となり,それはそれとして必要な段階ではあるが,それで終わってしまっては「意味あるコミュニケーション活動」とは言えず,仕上げ段階では対象認識を包摂しつつ関係認識が全面に出るレベル3,4まで学習者を連れて行く必要があるというわけだ。

第8章末尾の

教材は,具体的素材だから,存在するだけで子どもへの働きかけとなる要素がある。だが,教材を提示するだけで授業が面白くなるわけではない。授業は,子どもが活動して初めて面白さは生まれ,理解も生まれる。教材に即した子どもの学習活動の構想が必要だ。今,むやみにゲーム化したり,スキル化されたドリル活動を強いる傾向がある。

そうではなくて,教材を授業に変換するには,教材が子どもの生活や関心事とどのように関わっているかをつかみ,子どもたちの物語に即しながら,授業それ自体が新たな物語を生み出すように構想される必要がある(p.146)。

という指摘にも頷くばかりである一方で,子どもの生活や関心事との関わりがきわめて希薄だったり,「物語」の端緒すら掴めない場合も少なくない,英語教育特有の困難さも考えずにはいられなかった。ただ,それを埋めようとするあまり,必然性や内容の乏しい「タスクもどき」・「プレゼンもどき」が跋扈しないように,次の指摘は十分にかみしめておきたい。

最後に,討論・話し合いについて今日の課題を指摘しておきたい。新学力観的授業の後遺症なのか,心理主義的な気遣いのためなのか,子どもに発表させるだけの授業が広く存在している現実がある。子ども同士が『聞き合う』という場合にも,他者の発言を『理解する』だけの場合がある。発言の内容に分け入って,相互にその理非において吟味する討論へ発展させようとするつもりが最初からない授業がある。そこでは,話し合いをしても対立点が曖昧なままに終わり,なんの合意も生まれないままとなる。主張や認識が論証されたのか,されなかったのかがはっきりしないのである。『話し合い』『学び合い』『討論』は,証明・論証のためのコミュニケーションであるという視点で深める必要がある(p.171)。

やっぱり紹介としても,読書ノートとしても稚拙な文章になってしまったのだけれども御礼かたがた。