[本004] なぜ学校へ行くのか。

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担当している「教職実践演習」( 4年次後期)で、「なぜ学校へ行くのか」という問いを投げかける。教師になったあなたは「なんで私たち学校通ってるの?」という子どもの問いにどう答えるか。

昔「教育原理」などを担当していた時は「義務教育だから」という答えもすぐ飛び出したが、さすがに今はそれはない*1。逆に、教員養成系大学にいて感じることがままあるのは、学校や教師という存在の自明視。そこを揺さぶられる経験はある程度しておいて欲しいのだが、かといって変な社会学のように根底から叩き壊してガレキしか残らないというのでは困る。カタルシスを感じるために教員養成課程があるわけではない。

年も明け、この授業を来年度受けることになる学年を中心に、教員採用試験に向けた勉強も徐々に本格化してくるだろう。教職教養等で、学校や教職の成立とそれをめぐる歴史的・社会的系譜にも多少は触れる機会がありそうだ。ただ、項目や人名の暗記に終始するのでは何にもならない。せっかく貴重な時間を割いて勉強をするのなら、今のうちに考えながら読んで欲しいのは、例えば

のような本だ。一節を引く。

「人が人らしく育つ」ということの勘どころは、前の章で述べましたように、選ぶ力をきたえること、分別する力をきたえることです。これなしには人間にはなれません。遺伝・環境といういわば与えられてあるものに対しても、この分別力を開発し、きたえることで、それらを個性の一部に組みこみ、新しい意味を与えることができる、そういう人間のとっておきの力をきたえることが、人間を人間らしく育てることの勘どころだとおいうべきでしょう。

ところが、今の学校が、本当に選ぶ力や分別する力を開花させる教育に力を注げるような状態にあるのかというと、そうはなっていないと思うのです。つまり、今の学校で行われている教育は、まず各教科を通じて何事かを教えます。これはおおむね教室のすべての子どもに対して画一的に行われます。教えたところで、その教えたことがどの程度子どもの中に残っているか、歩留りを調べるためのテストをやります。そして、そこで点数と順番がつくということになります。それを何回も何回も重ねるうちに、その到達点の歩留りの平均値、ないしそれによる印象をもとにして、きみはどの程度の成績だから、どこの高等学校へ行け、どこの大学へ行け、というふうに人生への配分が行われる、こういうことになるのです。つまり選ぶ力ということを試す以前の、教えたことの歩留りの結果によって人を分配する、このような機能をやらされているのが、今日の学校の状態ではないかと思います。

考えてみると、これは子どもに対して、かけがえない生命に対して不遜ともいうべきことでして、その子その子の選ぶ力、分別力に思いをいたしてたしかめてみることもしないで、教えこんだことの歩留りの総点と順位で、医者になれ、労働者になれと進路を決定づけるようなことをやっているのです。自分がどういうユニークさをもっており、それをどういう社会的部署で生かすか、つまりどう生きるかの問題は、人間一人ひとりにとってもっと厳粛な問題であって、本来は他人がこれを決定するようなものではないはずです。それを成績しだいで教師が進路決定する。学校はそういう乱暴な人材分配機構になっており、教師の日常業務はそれを引き受けさせられているようなものです。

「どう生きるか」の問いは、学校が答えるにはあまりに重く、それは学校の答えうることではありません。学校にできることは、すでに述べたように、主として知育を通じて、この問いを一人ひとりの子どもがみずから解いていくのを助けることであろうと思われます。いい直すと、どう生きるかの問いを深め、かつその問いの解決を助ける能力の一部ともなるいろいろの知的分野への興味や好奇心を育てることです。一人ひとりの子どもたちの、どう生きるかの問いに答えることは学校にとってむずかしいとしても、その問いにどこかで、いつかはつながるはずの「なぜか」の問いを、各分野の学習を通じて深めることはできます

では、それならば、どうしたらいいのかということです。重要なことは、学校で教えたものが子どもたちにどういう受けとめ方をされているのか、その学びとった知識によってどんな選ぶ力が子どもたちにできたのか、そこのところが学校での評価の勘どころだというふうに私には考えられるのです。

もっと別の言い方をしますと、自分の教えたことで子どもがどんな興味をもつようになったのか、どんなことをもっと知りたくなったのか、どんな問題、課題をもつようになったのか、そこのところが勝負のしどころ、つまり彼らの選ぶ力への教育の効果の現われです。最近文部省の提唱する「新しい学力」の中心にある「意欲」「関心」「態度」というものもおそらくこういうことをさしているのでしょう。ただしそれは点数や順番で評価できるものではありません。それは不見識であり、大人の思いあがりというべきです。その子その子の固有さこそがかけがえなく大切なものです。そこまでだいじに一人ひtぽりの子どもの内面にひきおこされた事実に注目することが、実は人間教育というもののあり方ではないかと思うのです(pp. 143-146。下線は引用者による)。

この新版が出てから今年で20年だ。さて、この話を一笑に付すことができるように学校は、教育は変わっただろうか。もちろん本書の意見に無理に感心したり同意したりする必要はない。むしろ、著者の見解を自分に引きつけて読み、わき起こる感情や違和感を掘り下げてみてほしい。今こそそれにうってつけの時間なのだから。

冒頭の投げた問いに対して、解説をしたり「回答」例を挙げたりはしない。教師として自分なりに考え深めていってほしいからだ。ただ、私自身の回答は、この本全体、敢えて特定の箇所を言えば215-216ページの記述に強く影響を受けている。それをどう感じるかは自由だ。

それとは別に、もう一節だけ引用をお許し願いたい。教員養成課程在籍・出身者は自分に重ねて読まれたい。

私は、前にもちょっと書きましたが、そこから多くの学校教員への就職者が育つ大学で6年間ほど仕事をしてきました。この大学には、教員免許資格を与える必要から、あらゆる教科領域の専門の教授たちがそろっていました。私が学長としてこれらの教授たちに機会あるごとに行なった注文は、それぞれの専門領域についての知識を伝えるほかに、それぞれの教科分野の認識論と方法論とをしっかり学生たちに伝えて下さいということでした。それは、それぞれの専門分野の学問が、人類の歴史の中でどういう事情で生まれ出たのか、どういう学問探求上の興味・関心からその分野の研究がはじまったのか、その専門分野はどういう独自の探求方法をもっているのか、人間の行ういろいろな事物認識の方法の中で、どんな独自の認識の仕方をする専門分野なのかなどについても、ぜひとも教えておいて下さいということでした。それぞれの専門教科の知識がわかち伝えられるほかに、こういうものがあわせて教えられることによって、学校教師の候補者である学生たちが、単なる詰めこみ、すなわち入学試験での合格切符を手に入れるための卑俗な実用主義的勉強のための授業を克服して、子どもたちに本当の科学的知性を身につけるよう指導できる力量をもった教師に育ってほしかったからです。こういう力量をそなえた教師であってはじめて、学校でなくては保障できないような質の情報を、それへの学問的興味や探求的関心といっしょに子どもたちとわかち合うことができると考えたからです(pp. 218-220。下線は引用者による)。

これまで自分が履修してきた授業をふり返ってみよう。果たして各教科の認識論と方法論を伝えてくれるものはどれくらいあっただろうか。その内どのくらいを摂取して実とすることができただろうか。

残念ながらさっぱりんこという人も、大丈夫。It’s never too late to learn. 本書は図書館にも数冊入っているし、私の部屋にも手の届きやすい場所に置いてある。

 

*1 歴史的経緯や範囲等の問題は措くとして、日本の場合「義務教育」というのは、「保護者には子どもに普通教育を受けさせる義務がある」という就学義務や、市町村の学校設置義務、(義務教育国庫負担金制度や就学援助制度などによる)国の就学保障義務、学齢期の子どもを一般の労働者として働かせない避止義務のことであって、子どもの側から見るとあくまで「権利」である。

日本国憲法【第26条】教育を受ける権利,教育の義務 すべて国民は,法律の定めるところにより,その能力に応じて,ひとしく教育を受ける権利を有する。 ②すべて国民は,法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は,これを無償とする。

Let there be light reading.

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