Pocket

前記事の補足。

こう見えて私は、スキューバ・ダイビングのライセンスを持っている。大学という腐海を泳ぎ生きるために必要だった…わけではなく、どうせ沖縄に行って潜るならと3日間ぐらいの集中講習を受けて取得した。有効期限はなく、沖縄の本部町のあの辺の海であれば水深18mまで潜ることができる。しかし、もう10年近く潜っていない。水に入る順序もレギュレーターの使い方もすっかり忘れてしまった。そもそも、あのボンベを背負って歩く体力が私に残っているのか。ああ会議会議で息が苦しい。

「英語能力に関する外部試験」も一度取得すれば有効期限はない。20年前に取っても英検準1級は「英検準1級」だ。公式に期限は設けられてなくとも履歴書等には当該資格・スコアの取得年月日を記載することが多いので、面接その他では一応「で、今はどう?」というツッコミが可能ではある。大学1年生時のラッキーホームラン的なスコアがあったとして、その後一切英語を勉強も使いもせずに英語が求められる職に就こうという学生は稀だろう。

ただ文科省のあの手の調査は、一度取ってしまえば「ああ、私持ってるから」とドヤ顔ができる。調査してる側も、ノルマを達成するために物陰に潜んで無理くり交通違反を取り締まっているアレと一緒で、数字を整えて「質保証できてますもん!」と形式的に叫びたいだけだ。自然、現場でも「取っときゃ批判されないんだから我慢して受けよう」、採用前の指導も「取るだけ取っといて難癖つけられないようにしよう」という発想になりがちだ(それにもかかわらず受験経験者がそれほど増えていない辺りで前記事での指摘を想起されたし)。「熱く灼けた石の上を我慢して歩き切ることができればお前も成人と認められるのだ」的な儀式としての外部試験。君たち、そんな度胸試しの、後ろ向きの資格・検定として扱われていいのかね。本末転倒だとは思わないのかね。てか「英語能力」どこいったん。やっぱり世の中金かお金なのよなのか。

「英検等で測られる英語運用能力は、英語教員の十分条件ではないにしても必要条件だ」と考える人であっても、求めているのはそれぐらいの、あるいはそれ以上の英語運用能力であって、「英検準1級」とかTOEICの730というスコアそのものではないはずだ。そこで冒頭の話に戻ってお伺いしたいのは、例えばすごい上のクラスのインストラクターのライセンスを持ってるけど10年近く潜っていない丘ダイバーと、ライセンスは最低限だけど毎週何度も潜ってる海人ダイバーと、あなたはどちらと潜りたいですか、どちらにダイビング教わりたいですかということ。真夏の果実的な思い出話は丘ダイバーのほうが豊富かもしれないが、結果にコミットしたいなら、いや死にたくなければ間違いなく海人だろう。

もちろん英語教員は日常的に教材を作って教え、教材や生徒の書いた英文を読んだり聞いたりしている(はずだ)から、英語運用能力に関して丘ダイバーのようなことはない。はずだ。と思いたい。筋力や肺活量が落ちるように英語の知識が剥落していくわけでもない。ただ英検(準)1級合格に労力を注いだ人や長期留学した人ならよく分かるだろうが、そこで得た運用能力を維持するのは、さらに向上させていくのは、それほど簡単なことではないのだ。やぶ蛇だけど、55.4%の「英検準1級以上等を取得している教員」の中に、現時点においてその意味で十分な英語運用能力を持っている人はどのくらいいるだろう。逆に残りの44.6%も含めてその意味での現役ダイバーが多ければ、英語教員は世の中の無責任な批判に対して、この種の調査に対してもっと怒ってよい。

私はそういう「経営的発想」の管理・統制にそもそも反対だけれど、もし、前記事で言及したような環境・条件面の課題を前提とした上で、敢えて私が英語教員の英語運用能力を問うとすれば、「どのくらい(英語学習者というより)英語使用者でいるか」を重視したい。

知り合いの先生に、毎年必ず英語圏に「留学」するという人がいる。10日間であれ1週間であれ忙しい日程をやりくりして、漫然と旅行するのではなく、目的を決めてどこかに学びに行く。アメリカにグループワークの技法を学びに行く、イギリスの学校に演劇的手法を学びに行く、というように。英語を使いたいし、英語を使って学ぶこと自体が楽しいし、それを何らかの形で生徒に還元できれば…というわけだ。仮にこの先生が英検準1級以上を持っていないとして、TOEICやTOEFLのスコアを持っていないとして、英語教員として何が不足だろうか。誰か私に納得できるように説明してくれ。

この先生のような形ではなくても、必死な顔で勉強して英検準1級取ったどー!と叫んでいる人よりは、TEDの動画が好きで年に300本以上観ますとか、フィリピンの友達と週に1度はスカイプしてます、カナダの恋人にラブレターを認める毎日です、言語学や第二言語習得の本は原著で読まなきゃっすよねー乱読してます!とかのほうがずっと英語使用者として健全だし、英語教員として評価できる(最後のやつはちょっと嫌いだけど)。というか私が生徒だったら、そういう人たちに英語を教わりたい。

このように、各自がそれぞれの言語使用経験を蓄積し、その履歴を言語運用能力の証明とするのは目新しいことではない。パフォーマンス評価とかポートフォリオとか、言葉だけ入ってきて魂が抜けたままになっているやつがそうだし、本来「ヨーロッパ共通参照枠」(CEFR)と併せて用いるようデザインされたEuropean Language Portfolioはまさにそのためのものだ(「タスク」を特集した『英語教育』2015年6月号を見てもこの種の評価法に触れた記事は見当たらないのだけれどね…)。英語使用経験だけで授業がどうかを判断するのは難しいとしても、その先生がどのくらい現役の英語使用者でいるかはこちらのほうがはるかによく見えるのではないだろうか。もちろんその英語学習・使用履歴の途上、延長線上に「英語能力に関する外部試験」が位置するのは何ら悪いことではない。前記事で述べた通り、本人が必要だと思えば利用したらいい。

それにしても、各校に「CAN-DOリスト」の形での学習到達目標設定を求める割には、教員にはholisticな点としての「英検準1級以上等」の取得を求めるというんだから*、さすが「グローバル」、世界と考えることが違う。さらに言うと、世界と考えることの違う「グローバル」は、こういうことを言われると「取得者であっても、3年に一回は英検を受験するよう各教育委員会に通達し…」とか言い出すから本当に嫌になっちゃうんだけどね。

やれやれのやれやれだ。

* 念のため申し添えておけば英検はちゃんとセクション別の得点も教えてくれますけどね。