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前の2つの記事に対して少なからぬ反響をいただいた。ありがたいこってす。そこで改めて感じたこと。長文失礼。ひとことで言えば、“Get real.”

複数見られた反応の1つが、「大学4年間でその程度の能力もつけられないのか」というもの。

言うまでもなく、前の記事の意図は、英語教員志望者の英語運用能力が低いままでいいと開き直ることではない。大学が彼らの英語運用能力を放ったらかしにすることを良しとしているわけでもない。個人的には、文科省が求める「英語能力に関する外部試験」の資格・スコアと、英語教師として授業構成・英語指導に必要な英語運用能力との相関・因果関係は (一般に考えられているほどには)強くないと思っているが、前記事で指摘したように、アクティブな英語使用者である結果としてそうした観点で見ても英語運用能力が高いに越したことはない。

私が今いる環境について言えば、幸いなことに優秀な学生・院生に恵まれ、教員採用試験受験前に「英検準1級以上等」を取得している者は多い。スケジュール等の問題で受験時までに取得していなくても、この時期私は、通常の授業とゼミに加え、中高英語教員志望者と模擬授業の自主ゼミを開催しており*1、(つまらないことにこだわる人たちのために敢えて強調しておけば)All in Englishで授業をしてもらい、その授業について英語でディスカッションをするところまでやっている。前記事で記述した条件の中でもやれる限り全力を尽くしており、実質として、全くもって文句を言われる筋合いはない(だからみんな静岡大学に来ればよいと思う。歓迎します)。形式主義者はEXCELでできた書類でも食べていればよいのだ。

ただ、事は日本全国の中高英語教員約6万人の話なので、もう少しマクロに見る必要がある。さて、この約6万人がどのように養成・採用されてきたかそもそもご存知だろうか。非現実的な夢や理想だって語るのは自由だし「そうなったら素晴らしい」というご意見もありがたく頂戴しておくが、われわれは過去を背負った有限の現実世界に生きており、ないものはないし、ない袖は振れないのである。

まず養成の話。日本の教員養成は「開放制」で成り立っている。教員養成系の学部以外でも、教職と教科の必要な単位を取得すれば教員免許状を取得できる制度のことだ。このことの是非や課題を今論じるつもりはない。さて英語教員免許を取得できる大学はどのくらいあるだろうか。平成21年以前に登録されたもののようだが、文科省のサイトに「中学校・高等学校教員(英語)の免許資格を取得することのできる大学」がまとめられている。一種免許状で458課程ある。2課程以上置いている大学も多いので、大学としては350くらいだろうか(数えるのは時間のある人に任せる)。数だけで見れば、約750の大学のなんと半数近くで英語教員の免許を出していることになる。表に示された定員は学科やコース全体の人数っぽいので、この人数の全員が免許を取るわけではないだろうが、ともかく、毎年かなりの人数の英語教員免許状取得者が生まれていることがわかる(数えるのは時間のある人に任せる。参考までにこちらのデータも参照されたい)。日本が100人の村だったら25人ぐらいは英語を教える資格を持っているのではないか、計算上は、ひょっとして。

大学に進学した人はちょっと思い出してみて欲しいのだが、教育学部や教員免許が取れる大学・学部はどのくらいのレベルだっただろうか。偏差値70とか医大並の「狭き門」であっただろうか。「あー、教員免許取れるところ行けたらいいけどねー、難関だな」、「この成績なら医学部か教育学部だって十分合格できるぞ」なんて会話がクラスで繰り広げられていただろうか。決してそんなことはない。上述の約350の大学が全て偏差値50より上に位置するなどということは考えにくい。有名私立や国立の難関校ですら、教育学部は50台半ばから60そこそこの「難関学部に比べればイージー」な存在として、「ヒロスエがいるなら行きたい」程度の存在として扱われてきたのではなかったのか。

このことは特に、フィンランドや韓国のような、厳しい選抜をくぐり抜けた者しか教員養成課程に入れないシステムの国との比較で教員の質を云々する議論に対して考慮すべき要因となる。その点で、

の一読を勧めたい。アメリカの教員養成についての次の一節だけ引いておくが、上述の日本の事情と少なからず一致することが分かるだろう*2。

アメリカで教員として勤めていくうえでは、素養が欠けていてもどうにかなる場合がないわけではない。たとえば、仕事をしながら学ぶことができれば、知識の欠如を補うことは可能である。また、力のある校長や指導者に恵まれるということもあるだろう。ただし、そんな幸運でもない限り、受けてきた教育に穴があるのはやはり厳しい。大学院進学志望者が増加し、経済界からも高度な思考力が求められるようになってくれば、教員自身が学んだことのない内容を教えなければならない場合も増えてくるはずである。(中略)

ベテルはノースイースタン州立大学の二年次に、教員養成課程の申し込みを行った。ここにも、大学が教員志望者のなかから俊英を選抜できる機会はあったことになる。けれども、実際には、このときベテルが求められた評定平均は(4点満点中)2.5点という低水準だった。同じ大学内で言えば、視力検定士志望者に求められる評定平均のほうが高いくらいである。(中略)

また、SATと同様の共通テストであるACTの成績も要求されていたが、その基準は19点だった。なお、ACTの全国平均は20.6点だった。その意味するところはもうおわかりだろう。要するに、これまでの学業の成果を試す共通テストで全国平均を下回るような成績しか上げられない学生でも、目指す職業が教員ならば問題はない、ということだ(pp. 137-139)。

ただ、教員養成課程の入口のハードルが低いこと自体はそれほど問題だとは私は考えていない(免許取得者が全員教員になるわけでもない)。正直なところ、高校3年間E判定をもらい続けた言わば「ビリギャル」大学教員の私は、高校時代の偏差値をそれほど重要なものとは考えていない。わかりやすい指標のひとつとして事実を確認しておいただけだ。

問題は全て、その後にある。大学には留学したりなんだり「英語力」を高めた学生は変わらずいるか、なんだったら私の周囲では増えてるぐらいだ。教員志望の学生も精一杯努力しているし、冒頭のような取り組みを通じて私もできる限りのことをしている。英語教員養成に携わる他の大学教員も同じだろう。と信じたい。信じさせてくれ。そうして彼らが、誰にも文句をつけられないくらいの英語運用能力を得た暁に、英語教員という職を選びたいと思うかどうか、選びたいと思うような職業であれているのかということを、英語教員養成に何かを要求する前に考えてもらいたい。いま現在、医者や弁護士や…の次に教師を並べる人がどれだけいるだろう。並べたいと思うのであればそれに見合うものを用意しなければ人は動かない。人間だもの。

イギリス留学経験を持ち、どの側面を見ても教員として申し分のない学生が航空会社に就職した。入学時TOEIC300点台だった学生が卒業時に900点台のスコアを持って、誰もが名前を知る有名企業に就職していった。外国語能力がより活かせる環境へと海外に、役所に就職していった者もいる。誰が彼らを責められよう。むしろ自分と社会にとって最善の選択をしたのではないだろうか?(私の老後の面倒もヨロシクね)。前記事で、待遇の改善を前面に出して「英検」問題を皮肉ったのはそういう事情による。「教員を過酷な聖職として重んじる発想はあっても、知性を要する職業として重んじる発想は、当の教員自身や教員養成校の教授にすら欠けている場合が多い」という状況を肯定したいわけではない(上掲書、p. 137)。むしろ逆で、求めるものに見合った敬意を払わず要求ばかりする、その身勝手さに怒っている。

複数見られた反応のもう1つが、「英語教員にその程度の能力がなくてもいいのか」というもの。そのモノサシを「英検準1級以上等」のみに求めるのは発想が貧困だと思うけども、「その程度の能力」があるに越したことはない。ただ「その程度(以上)の能力」を持った者が教員を目指してくれるような社会ですか?というのが上の話。そして、もう一つ採用を巡る問題がある。

前記事で言及した調査に付随して、福井県の英語教員の「英検準1級以上等」取得率が全国1位という報道があった。

記事を読むと「7、8月、講師を招いて英語力と指導力の向上を目指す研修を高校教員に1日間、中学教員には3日間実施」してくれたという。何もせずにただ受けろと言うよりだいぶマシだ。研修が全体として彼らの教員としてのスキルアップに実りあるものだったなら素晴らしい取り組みと言ってよいだろう。ただ、福井県は47都道府県中、高校も高校教員数も最も少ない県の一つだということは知っておいてよい(例えばこちらを参照。全教科の高校教員数全体で1000人台の県は島根・福井・徳島・鳥取。平成24、25年のデータで高校数は下から2番目)。福井の英語教員に罪はない。いつ行ってもどんよりジメジメして駅前もパッとしない福井県にも罪はない。道中揺れすぎのサンダーバードにも。だが問題は、同じことが10倍以上の学校と教員数を抱える東京都でできるか、同様に高校教員数1万以上の大阪・神奈川・愛知といった大都市でできるのかという話なのだ。惣菜の一つひとつにまで温かさの沁み込んだ家族経営の食料品店の経営法・指導法を、大手スーパーやコンビニの経営・研修の隅々にまで行き渡らせることができるのであれば是非そうしてもらいたい。福井県に、弁当を温めるレンジのスイッチを自分の手で押し、目の前に置かれたハーゲンダッツに触ってもなお「温かいものと冷たいものは袋をお分けしますか」と尋ねずにはおれないコンビニ店員が存在しないとすれば、「コンビニ力」も福井県は日本一と勝手に認めてあげよう。

関連してもう一つ、この手の議論で意外と言及されないが最も重要な点だと思われることに、県によって教員の世代構成が全く異なるという事実がある。この点については、最近出版された

を参照してもらうと分かりやすい。ここでは小学校教員の分布が例に挙げられているが、福井や秋田は今、40代後半~50代にピークが来る、比較的きれいな山の形をしている(これこそが全国学力・学習状況調査の結果を左右する最大の要因の一つではないかとすら私には思えるのだが)。つまりマスで見れば、経験があって脂の乗った≒指導力の高い教員の層が最も厚く、学校・地域での世代間継承もしやすい構成になっているのだ。

中高の英語教員にこの状況を当てはめれば、それ(20代教員の少なさ)は、英検準1級・TOEIC730以降を持った人に絞っても採用がまわる、要するに他県と比べても採用側に選ぶ余裕がある状況だということを意味している。一方、神奈川・東京・大阪などの大都市では、20代半ばと50代半ばがピークのふたコブ構成になっていて、そんな余裕はどこにもない。その学生が十分な英語力を持っていようがいまいが、採用しないとまわらない現状があるわけだ。年配の側に、英語運用能力が低いままでも「でもしか」で教師になれた人が多いのか、ザ受験競争加熱時代のまあまあエリート層が多いのか、それが相殺しあってトントンなのか、正確なところはわからない。私も、教科ごとの、学校種ごとの全ての詳細なデータを把握しているわけではない。ただ少なくとも、県によって、自治体によって事情は様々だということだけは理解されたい。その点でも「英検準1級以上等」というモノサシだけでああだこうだ言う議論は粗雑すぎる。

団塊世代の大量退職という話はある程度知られているが、その影響もあって多くの自治体では(正規採用するか講師にとどめるかはともかく、少なくとも教壇に立つ時点では)世の人が幻想を抱いているほど高い能力を持った人が教員として採用されているわけではないし、だからといって「武士は喰わねど高楊枝」で採用を見合わせるわけにはいかない実態があることを(大学教員ですら)分かっていない人が少なくない。24の瞳はあんなにキラキラしていたのに、2億4千万となるとどうにもエキゾチック・ジャパンである。

私はこれまで、(英語)教師たちがその専門性に見合った矜恃を持ち、専門職として自らと自らのしごとを充実したものとするには、赴いた職場はもちろん、養成・採用・研修の全てにおける環境整備こそが何より喫緊の課題だと考え、前記事のような待遇改善を前面に置いた物言いをしてきた。しかし、それに対する「自分たちの都合ばかり言って」というような反応を目にするにつけ、これまでに指摘してきたような「教員(養成)」に対するナイーブな信念をどうにかしない限り、そういう要求をしてもマイナスに働くばかりなのではないかと思うに至った。ナイーブではあってもサポーターからの叱咤激励みたいなものと捉えれば…と考えてきたところもあったが、想像力のない人たちが手前勝手な想像を押しつけるだけで、当の教員が疲弊してしまうのでは困る。

スーパーヒーローのような活躍を期待されても、スーツのないアイアンマンはただのマンであり2時間はとても持たない(ダウニーの香りがしてもそれはアイアンマンではない)。まあアイアンマンならどんな逆境でも1時間40分くらいで都合の良い展開に持って行ってくれそうだが、デビルマンだったら「こんな人間たちのために…オレはッ!」と煩悶してしまいかねない。残機数1のアンパンマンがカバ夫くんに顔をちぎり与えてしまったら、その後の授業はどうしたらいいのだろう。小麦粉と餡が安定供給されなければ、ジャムおじさんだってニューフェイスは焼けないのよ。そう言うと、勤続25年以上のバタ子さん(仮名)は荒れた手で涙をぬぐった。アンパンも教師も、愛と勇気だけでできているわけじゃないのだ。

 

 

*1 正規の授業ではなく、まったくのボランティアですけどね。好きでやってますから!

*2 ただし日本の場合、寺沢 (2014)で明らかにされている、「ベビーブーマー就学による生徒数増加への対応として、英語教員を大量に採用したことが、その後、生徒数が減少した後、英語教員の人的余裕を生みだし」(pp. 170-171)たという事実(他教科と異なる点)が、英語教員の質という面で見た際にどういう影響を持ったのか詳しいことは分からない。