Pocket

英語教育ないしは学校教育一般の動向に関することを除けば、授業やゼミで政治を話題にすることはほとんどない。それは私の役目ではないし、学生一人ひとりが主権者として自分で見聞きし、感じ考えていくべき問題だ。もちろん私自身の政治に対する見解を表明することもない(滲み出てはいるだろうけど)。しかし、事態は随分のっぴきならないところまできてしまった。

ばかげた話だ。当事者の学生が式典で「君が代」を唄いたいと考え、(投票を通じてであれ代表者の合議を通じてであれ)みんなでそれを決めたというのなら唄えばいい。こんなことを一々言わなければならないほど思考停止していることが何より現状として深刻だが、「君が代」であろうが「手のひらを太陽に」であろうが、そんなことは誰かから強制されることではない。

「国旗・国歌法」、正しくは「国旗及び国歌に関する法律」だが、これは国旗と国歌が何であるかを定めただけのものに過ぎない。「適切な判断」が何を意味するのか全く理解に苦しむが、こうしたやり方で国旗や国歌が大事にされるとか、そういう気持ちが育つなどと考えているとすれば、そういう人たちこそ国旗・国歌に対して最も「不適切な判断」をしている。参考として1年半以上前の記事を引用しておこう。

税金がどうのという人がいるが、運営費はこんなことにたいして交付されているわけではない。交付金や組織改編の認可をチラつかせてこういうことを押し付けるのだとしたら、それは恐喝と何の違いがあるのか。

いざとなれば有志で手作りの式典をやればいい。そのためのカンパならいつでもしよう。入学式・卒業式で当事者の意思に反して何かの掲揚や斉唱を強制されるとしたら、それは私が大学教員を辞めるときだろう。だって暴力団の下部組織に就職したわけではないもの。「グローバル」に言えば、shame on you!

それ以上にばかげた話なのが安全保障関連法案。

衆議院憲法審査会の参考人質疑で言われていた通り、実行犯の「送迎」を自覚的に行った者を無実とみなすお人好しがどこにいるというのか。地下鉄サリン事件の運転手はみな死刑または無期懲役の判決を受けている。仮にトチ狂った同盟国が戦争をおっぱじめて、「存立危機事態」だからと「集団的自衛権」の名の下にその「お手伝い」をさせられた時、日本は被害国にどういう存在と捉えられ、どう扱われるのか。空き地無双モードのジャイアンの横にいるスネ夫程度で済むのか否か。ヤクザ映画の抗争では、幹部よりも先に下部組織の事務所が襲撃されたり鉄砲玉に駆り出されたりして悲惨な最期を迎えるのが常だ。

言うまでもなく、自分たちが何者かから攻撃を受けた際に対応する「個別的自衛権」はある。自分の家に泥棒が侵入したら捕まえていいし、暴漢に襲われたら撃退して構わない。憲法はそこまで非暴力の自己犠牲を強いてはいない。ところがいま家族に、この地域が物騒だからと、家を飛び出てご近所まで守る警備会社的な行動を取れよという謎の家族会議が突きつけられている。あるいは他所の縄張りで他所の組長を守れと、盃を忘れたのかと鉄砲玉にチャカが渡されようとしている。納得できる理由はほとんど全く示されていない。他所の家の庭先をウロチョロしててもお前は安全だから大丈夫と全く信用できないことを繰り返すばかりで、むしろあんたが地域を物騒にしている張本人じゃないのと言いたくなる。

仮に地域を守る自警団的なことがしたいなら、他所の組と結託して仁義なき戦いをしたいなら、きちんと手続きに従って、憲法をそういう風に変えたらいい。現行憲法はそういうことはしないと、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定しているのだから。どこの盃を受けたヤツであれ、誰かにチャカを渡したりその人を現場まで運んだりし、そいつが誰かをハジけば「武力による威嚇又は武力の行使」の一端を担ったことになるのは誰でもわかることだ。

全くもってばかげた話だ。本当にそれが必要なら、みんなを納得させて、それができる憲法に改正すべきなのだ。われわれは憲法改正を禁じたことはない。その憲法を変えるハードルが自分たちの手前勝手な論理では越えられないとみるや、これまた手前勝手な解釈で「友だちがやべー時はオレたちもやべーからやべーやべー」と「集団的自衛権」を正当化し、「合憲だと言っている憲法学者もたくさんいる」と学問的権威にすがっておいて、憲法学者が皆こぞってそれは違憲でしょうと言うと、「数は問題ではない」とか「国のことを考えなくてよい憲法学者とわれわれは違う」とのたまい(じゃあなんで呼んだんだ)、みんなの理解が得られていないことを認めたその日に契約を結ぼうとする。これを無法者と呼ばずして何と呼ぼう。憲法と主権者もずいぶん馬鹿にされたものだ。重ねて言おう、shame on you! Shame on you!

 

上記の大半はひと月ほど前に書いていたが、なんとなく気が進まず、下書き状態にしていた。しかし昨日で、そして今日だ。冒頭に書いた通り、授業やゼミでこういう話に言及することはない。私の仕事のひとつは持てる限りの知恵と技術を学生に授けることであり、昨日は午後に3コマの授業があった。だからこちらの記事にある通り、

昨日は私のやるべきことを全力でやった。ただ、この状況で全く何も言わないというのは逆に不自然で、ひとりの大人として無責任なことだとも思った。昨日国会前に行けなかった分、こうして一人の主権者として怒りを込めて反対の声を挙げておく。

たいしたことじゃない、自分には関係ないとタカを括っている人もいるのかもしれないが私には理解できない。自分が、あるいは自分の子どもが自衛隊に入り、海外に派兵されることはないと(現時点では高みからそう思えると)しても、親戚がクラスメートが、自分の子どもの未来のパートナーが、友人の大切な人が、そうなって犠牲にならないという保証はどこにあるというのか。そういう悲劇を抱えなければならなくなるかもしれないことが、いま決められようとしているのだ。この70年の間に海外で日本人が事件・事故の犠牲になったことはあるし、自衛隊員が亡くなったこともある。しかしチャカを握らされて鉄砲玉をしたことはないし、われわれは「隣の組へのカチ込みに参加させられて犠牲になった家族や友人」をこの70年間は産まずに済んでいる。「やっちまいな!」と言われても、憲法のおかげで「無理です」と言えたのだ。

私が接している学生の多くは教師になる。5年後、10年後、世界はいまより安全で、貧困のない平和な世の中になっているだろうか。勿論そうなっていればいいが、そう都合のいい話はないだろう。いろんな境遇の児童・生徒と出会わざるを得ない。自分が教えた児童・生徒たちが長じて、例えば家族を助けるために自衛隊に入隊し、例えば進学のための奨学金と引き換えの経済的徴兵を余儀なくされ、「同盟国」との共同作戦で犠牲になった時、彼らはそのことに耐えられるだろうか。私はそのことが心配だ。私自身も耐えられない。誰かを殺したり誰かに殺されたりする人を送り出すために今ここで教育をしているのではない。反省したって戦場に送った「教え子」は還ってこない。どこかで行われた戦争が終わって再び教師たちはそのことを嘆き悲しみ、間違ったことを教えたと教科書に墨を塗らなければならないのか。荒唐無稽な話に思えるなら、今がそれだけ平和だということだ。それを捨て去ろうとする話が動いている。カオナシの「賛成多数の人たち」のように、そういう想像力が欠如している人が多いとすれば、そのことが一番こわい。

私自身に何ができるわけでもないが、以下に署名した。

そして岡田先生の言う通り、民主社会を生きるための呼吸としてこうして安全保障関連法案に反対を表明し、その審議や採決のプロセスに異議を唱える。

想像力のない人たちの偏狭な妄想と虚栄が、われわれの周りから酸素を奪って息苦しくし、飲む水を汚し、窓を曇らせ日差しを遮るのだ。鍵のかけられた部屋が汚染水でいっぱいになってから呼吸をしようと思っても、もう遅いんだぜ。

 

* スーパーファミコンの名作『タクティクス・オウガ』の章タイトル。使いたくはなかった。