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前田啓朗先生に捧ぎます(以下では敢えてけいろー先生と呼ばせてください)。長文になりますが、お付き合いいただければ幸いです。

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Twitterを見ているとみんなのけいろー先生であったことがよくわかるし、私も先生の「ふぁぼ」やエアリプに救われていた一人である。単純に、大好きな人であった。

ただ、私も研究者の端くれであるので、恩を少しでも返せるのであれば研究・教育で返したい。気持ちの整理はまだつかないし、けいろー先生の膨大な研究・教育の足あとを全てカバーすることなど私にはできないけれども、先生が私に教えてくれたことをこれまでの論文・文献に沿って私なりに噛み締めながらまとめてみる。

先生は冗談めかして「(恥ずかしい過去も晒してしまう)CiNiiなんてなくなってしまえばいいのに」と言っていたが、そのおかげでわれわれは、先生の論文をすぐに目にすることができる。いみじくもけいろー先生が、

で述べている通り、「すでに刊行された論文は先行研究として残り続ける」のだ(ただしこちらは良い意味で)。

1. 系統的レビュー、あるいは「きったない」測定・分析への警鐘

最近私は、Norris & Ortega (2000)を「第二言語習得・外国語教育研究におけるメタ分析研究の嚆矢」としてこねくり回し、その手続きについてやいのやいの言っている。前田 (2014)にも言及があるが、そのNorris & Ortega (2000)と同じ2000年に、けいろー先生は探索的因子分析の系統的レビューを発表している。

最近になってわーわー騒いでいることが、若いけいろー先生たちの手の平の上だったということはちょくちょくあった。これからもちょくちょくあるだろう。

前田 (2000)は、探索的因子分析を行う場合の留意点として、前田・大和 (2000)で挙げた6点に3つを加え、以下の9点を示している(前田, 2000, pp. 120-121。提示順序は、p. 121の記述に沿って分析を進める際の手順に従ったものに変えた)。

  1. サンプル数と標本集団の性質に注意すること
  2. 観測変数の分布を示す、 またはそれについての言及を行うこと
  3. 相関行列を明示すること
  4. 因子抽出は最尤法、最小2乗法、もしくは一般化最小2乗法で行うこと
  5. 因子数決定に関する言及をすること
  6. 因子あたりの指標数を考慮すること
  7. 因子軸回転は斜交回転で 行うこと
  8. 回転後のパターン行列、または因子行列などを明示すること
  9. 検証的因子分析を行う、 または斜交回転の適合度検定の結果や適合度指標を明示すること

この14年の間に、あるいは今現在、分析・論文化の際にこの留意点をどの程度の研究者がきちんと意識してきたのだろうか。考えるとそら恐ろしくなる。例えば2000年代後半に私が因子分析の勉強をしていた際、解説本や参照した論文はスクリーテストについては言及があった程度で、当たり前のようにカイザー基準を用いていた(というよりも「カイザー基準」という言葉すらなく固有値1以上で因子数を決めたというだけ)。けいろー先生のように、

しかし、解釈のしやすさや適合度などを考慮することなしに固有値のみに注目して因子数を決定するカイザー基準やスクリーテストは望ましいとは思われない。 また、解釈不可能としてその評価を放棄するような因子や観測変数が存在しながらも解釈を進めることは、分析に用いて結果に影響を与えているにもかかわらず解釈されていない変数が存在するということになるために分析結果に疑問が残る。仮定する潜在変数の数を決定するには何らかの判断基準が必要となるために、因子数決定の根拠を明示することが必要であろう(p. 121。下線は引用者による)。

と誰かハッキリ言ってくれれば理解はずいぶん違っただろう。今でこそ、

といった論文での同様の指摘(を包括的にやったもの)が国際誌を賑わせているが、けいろー先生たちは14年前から鐘を鳴らし続けてきたのだ(そして14年後に、

  • Mizumoto, A., Urano, K., & Maeda, H. (2014). A systematic review of published articles in ARELE 1-24: Focusing on their themes, methods, and outcomes. ARELE, 25, 33–48.

がひとつの結実として、この3人の手によってもたらされたことも印象的である)。その後、手法に関するわかりやすい解説本が手に取りやすくなったとは言え、因子分析や構造方程式モデリング(SEM)を用いた研究をするのであれば必ず読んでほしい。質問紙調査をする人は併せてこちらも。

けいろー先生がこの記事を読んだら「当時から成長してないってことだよな17歳JKのおれは当時3歳だったんだけども」と自虐的に応えてくれたかもしれないが、決してそうではなくて、測定・分析の仕方、その提示の仕方に対する指摘は普遍的なものであり、どの論考においても貫徹されている。例えば、

では、研究の背景と使用したテスト等が説明された後、「古典的テスト理論に基づく分析」の冒頭に次のような記述統計に関する記述がある。

表1にテスト得点の代表値などを挙げる。得点は1問ごとに正解であれば1点とし,満点50となっている。平均(24.380)は得点可能範囲の中央に近く,標準偏差が8.816であることと最小 (4)と最大 (45)の値から,床効果も天井効果もないと解釈できる。分布の形状は正規分布と比較して左右方向への歪みはほとんどなく (歪度0.068),尖度 (−0.850)から尖りが幾分少ないとはいえるものの,極端に正規性を欠く分布ではないと解釈できる(p. 132)。

統計に詳しい人たちは自分で解釈できるので不要なのかもしれないが、少なくとも私は、論文の中でここまで丁寧な記載と解説をしたものを見たことがない。私なんぞに査読にまわってくる論文でも未だに、

で解説されている適用条件を一切考慮しない「有意ドヤ顔クリック統計」が後を立たず「上記文献を読んでください」とコメントを返すのだけれども、そういう論文で床効果・天井効果が気にされていること、分布の正規性について歪度・尖度が気にされていることなど皆無だ。そのために文献で解説されているというのに。

あるいは上記の『英語教師のための教育データ分析入門』の中にも、相関分析について次のような記述がある。

たとえば,同じ.68という相関係数があったとします。これが,同じ能力を測るテストだとされている2つのテスト得点の相関係数だとしたら,同じ能力を測ると言えるほど相関は高くないのではないか,と解釈できるでしょう。一方,信用できるリーディングテストの得点と,リーディング 能力を推定するために自作した語葉テスト得点の相関係数だとしたら,なかなか高い相関が得られたのでもう少し語彙テストを改善してみようか,と解釈できるかもしれません。このように,相関係数の解釈については,それぞれの文脈において,どのくらいの値だったらどういった意味を持つのかを,しっかり考える必要があります。研究論文であれば,先行研究をよく調べて,どの程度の値であればどのような意味を持つのかを,考慮しなければなりません(p. 66。下線は引用者による)。

とにかく相関係数を並べて「これとあれには弱い相関が、強い相関が」と数値だけで断じてはいないだろうか。効果量も同じことで、一次研究であれメタ分析であれ「それぞれの文脈において、どのくらいの値だったらどういった意味を持つのかを、しっかり考え」なければならない。上記の1.や2.の重要性は探索的因子分析に限られるものではなく、全ての量的研究に当てはまることだと言える。前田 (2000)は次のように締めくくられているが、つきつめれば全ての実証研究に向けられたことではないだろうか。

検討する際に用いた9点が探索的因子分析を行う際に留意すべき点のすべてではない。しかしながらこれらを踏襲していれば、分析結果を述べた部分で指摘したさまざまな不都合を少なくとも回避できることは言うまでもない。測定や分析、その後に下す評価、そして結果の提示に対してより真摯になることで、より英語教育および英語教育学に貢献をもたらす研究がなされることを希求する。本稿がその一助となれば幸甚である(p. 126)。

2. 「つらい」「くっそきつい」の向こう側、あるいは教師・生徒への眼差し

そもそも私は統計には明るくないし、もし1.で述べた点だけなら、けいろー先生のことを厳しい人だなと尊敬はしても、ここまで好きにはならなかったかもしれない。私がけいろー先生を大好きなのは、例えば『英語教師のための教育データ分析入門』の次のような記述を、文章や発言の端々で見聞きしてきたことによるのだと思う。(テストに欠席した生徒の得点の扱いについて)

欠席だからゼロとして扱うというのは簡単ですが,実際に受験すれば0点をとらないであろう生徒の得点を,0点として評定を行うのは忍びないでしょう(p. 73。下線は引用者による)。

結局これも「測定や分析、その後に下す評価、そして結果の提示に対して真摯」であるからこそ出てくる言葉なのだが、「問題がある」とか「手続き上瑕疵がある」ではなく、「忍びない」と思(い、そう書いちゃ)うところにけいろー先生らしさが表れている。ここは「忍びない」と感じる教師の気持ちを慮っているわけだが、そう思うのは、けいろー先生が普段から生徒・学生に対してそういう教師であったからに他ならない。

このベテラン教師の侘び寂びのような哲学も、若い頃の論文に既に垣間見える。例えば、

では、質問紙調査に対する探索的因子分析と構造方程式モデリングによる検証的因子分析によって、「(ノートを書くこと、および提出するノートに対する)評価に関する意識」が学習の達成(試験得点)にほとんど関わりがないことを示した上で、次のように述べている。

このことから、ノート・テーキングという行動をただ義務付けて評価の材料として組み込むことによって、それを授業へ学習者を参加させる手段として用いることが、あまり学習達成に貢献していないと考えられる。また、書くことを義務付けることによってその行動が学習を促進させる手段として、もしくは、義務付けながら書くことを続けるうちに学習者が方略使用の持つ機能などに気付いた結果学習達成が導かれるための手段として、ノート・テーキング方略使用の結果が評価の判断に使用されているが、十分に機能していないということが明らかとなった(p. 208)。

当時「ノートブックを定期的に回収して評価するとい うノート点検や、ある画一の記入形式(ノート形式)を指定するという指導」(p. 201)をしていたお膝元の高校に対して、厳密な分析結果に基づいてこの結果を提示しちゃうだけでもカッチョいい(教育に関する量的研究かくありたい)のだが、他の結果から具体的な提案をした後で次のように続ける。

英語学習を促進させるという目的でノート・テーキング方略指導を行う際には、ただ闇雲に学習者に欠かせるというだけでは大きな効果は期待できないであろう。いかにして学習者に主体的に判断させて情報の取捨選択を行わせるか、もしくは、書くことや書いたものを見返すことが学習に役立つものであるかというこ とを認識させることが指導における課題となる。一方、習熟度が低い学習者や学習動機をあまり持たない学習者を対象とする場合には、授業に参加させる手段として、または授業への参加の度合いを測定する手段として、ノートブックなどに書くこととそれらを点検し評価することが行われる場合もあろう。さまざまな場面に応じどのような指導が可能であるか、研究の余地がある(pp. 208-209。下線は引用者による)。

私には未だにこの優しさというか、視野の広さが欠けている。「ノート提出(回数)じゃ関心・意欲・態度なんて測れませんよ!」とかすぐ言ってしまいそうだ。けいろー先生のこの優しさは、それぞれの環境で、多様な背景を持った多様な生徒と向き合っている先生がたに向けられているのだが、結果としてそれはそこにいる生徒の多様性を斟酌し、ある意味で彼らも救う眼差しなのだ。それが授業参加と満足を生む場合だってあるのだから。けいろー先生は「日本人英語学習者」とか「EFL学習者」と括ることに敏感で、その目の粗いザルで掬い取れないもの、こぼれ落ちてしまうかもしれないものにいつも気を配っていた。

大修館書店『英語教育』誌に載せるつもりだったという、こちらにはその眼差しが端的なエピソードで紹介されている。

  • 前田啓朗 (2010).「分析方法とのつきあいかた」『より良い外国語教育のための方法―外国語教育メディア学会(LET) 関西支部メソドロジー研究部会2010年度報告論集―』45–46.

同じ『英語教育』で、2011年10月号-2012年3月号にかけて連載された「きちんと理解し,きちんと伝えるための統計分析」もいま改めて読み直したい。そこここに先生がたに向けられたけいろー先生の眼差しを読みとることができるだろう。なんせ傾き者だから、最終回のタイトルは「落ち着いて考える」。他にこんなタイトルをつけようと思う人はいないだろう。井上ひさしの「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」を地で行っていたと思う。そこが何よりカッコよかった。

3. 「つらい」「くっそきつい」の向こう側、あるいは学生・院生への眼差し

2.とクリアカットに分けられるわけではないのだが、学生・院生への眼差しも印象深く刻まれている。

大学で担当されている授業については、謙遜してそれほど多くを語らなかったが、外国語教育研究センターの先生がたとの「広島大学キャンパス・ユビキタス・プロジェクト」の報告も含め、

を読むと、表に見せないところで、どれだけ学生のために考え奔走していたかが分かる(昨今の安易なICT活用云々の議論にも、前田, 2008の冒頭3段落を突きつけるだけで十分ではないか)。

けいろー先生の担当クラスはどうみても全体としてTOEICの得点は伸び成果は上がっていると言えるのに、むしろばらつきが大きくなってしまった(得点が一番下の学生と一番上の学生の間が開いてしまった)ことや、授業前(事前)のテストと授業後(事後)のテストで散布図を描き対角線を引いたとき右下に位置する学生、つまり事後で得点が下がってしまった学生のことを気にする人だった。だから、前田 (2008, 2009)では、様々な観点・方法でその原因を探っている。それでも、事後で伸び(やすかっ)たグループの特徴が明らかになったことを喜ぶよりは、事後で下がってしまったグループのことを残念に思い気遣うような論調である。前田 (2008)のタイトルにも象徴されているが、「今後の、この実践で成功しなかった学習者に分類されるような学習者に対し、改めて教育的介入を行うためのその介入のあり方が課題となる」(前田, 2008, p. 261)と最後に述べるところに、終始assessment of learningだけでなくassessment for learningを考えていたけいろー先生の姿が浮かぶ。

もう一つこの立場になって沁み入るのは、前田 (2009, p. 169)でも触れられているような、一般英語科目を実践・運営する側の覚悟である(…と熱意と創意工夫と続けたくなるが、いやマジメに熱意と創意工夫もすごい)。

  1. 限られた人員的あるいは財務的資源の中で実践を行うこと
  2. 発表技能のクラスサイズを小さくすること
  3. WBTを活用することで学習の成果を保障すること

を同時に満たそうとするのは、ある意味でトリレンマ的状況への挑戦みたいなものだ。世間の人にどれだけ理解してもらえるか分からないが、どの大学であれ、英語科目の実践・運営に携わる者はそれぞれに下線の3要素と闘っている。もっと言えば、学校教育カリキュラムの計画・実施・評価の実践的課題はある意味でこの3要素に集約されると言っても過言ではない。

上の論文で報告されていることをさらに立体的に、中に分け入って理解する上で、次が非常に役立つ。

シンポジウムの講演記録というのは本人は好みではなかったのではないかと推察するのだが、僅かでも英語科目の運営に携わった、あるいは携わる者として、これは涙あるいは冷や汗なしには読めない。広島大学ほどの規模で、ここまで考えてここまでやるのか。高等教育機関に就職しようとする若手はぜひ、まず上記の論文を、就職後は初年次、3年目、5年目と上の講演記録を繰り返し読むといい。けいろー先生たちがいかにすごいか、いろんな制約の中で矢面に立って諦めずに闘っているか、そしていかにけいろー先生が外で喋り過ぎちゃってるかが分かるから。私は、Twitterでのけいろー先生の虚実ない交ぜの間の実の置き方がすごく好きだったのだが、広島大学の学生・院生に対する働きぶりをこうした文章から垣間みるだけでも、本当に「千慮」の人だったと思う。

ただ、学生・院生への眼差しで私に最も印象深く刻まれているのは、大学の外、つまり学会や研究会でのものだ。特に、今年の2月のLET中部外国語教育基礎研究部会第1回年次例会のけいろー先生の講演は、新しく部会を立ち上げた名古屋大学の院生たちへの 応援歌のようでもあり、先を歩く者として壁として立ちはだかってやんぞ宣言のようでもあり、その前後の彼らとの関わりも含め、院生の頃の自分たちと同じような何かを彼らに感じているのかなあと、部外者ながら勝手に泣けた。そういう形で、広大関係者や年齢の近い研究者はもちろん、今の院生・学生に至るまで、けいろー先生の影響を受けた者は全国各地にいる。

私に対しても同様で、今年は特に、外国語教育研究センターの研究集会に呼んでいただいたり、静岡の研究会、山梨での中部地区英語教育学会研究法セミナーと立て続けに多忙の間を縫って駆け付けてくださった。他の先生もそうだが、企画を面白がってくれ、少しでも来てくれる先生がたや学生・院生のためになるようにと考え準備してくれた。おまけに9月の長野では懇親会で私ひとりを聴衆にスライドショーをしてくださった。その内容は先生と私だけの記憶にしまっておくが、もしかしたら最後の聴衆である私のすべきことは、感傷に浸ることではなく、背中を押してもらった勢いを止めず、教わった研究と人に対する眼差しを忘れずに引き継いでいくことだ。

けいろー先生、ありがとうございました。時々ひょっこり現れてください。

Still, life goes on.