[雑感030] 言いたいことしか言わないこんな世の中じゃ…

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初等教育資料』という雑誌があるらしく、2015年8月号は「これからの外国語教育の在り方」が特集だというので手に取ってみた。6月のCELES和歌山で指摘したのと似た問題が看取されたので指摘しておく次第。

「[第1部]再考、なぜ小学校における外国語教育の充実がなぜ求められるのか」と「[第2部]英語教育改革を見据えた体制整備」の2本立て。目新しい内容があるわけではないが、解説記事や座談会、事例報告等々、40ページにわたって色々書かれているので、最近の動向について「へー、こういうことが色々と動いてるんだなあ」とまとめて知るには便利だろう。

大津由紀雄×直山木綿子対談を読もうと手に取ったのだが、その前に気になったのが直山さんの「外国語活動の成果と課題を踏まえたこれからの小学校外国語教育」という論説記事。第1部を見ても「充実がなぜ求められるか」と、本当に充実が求められるのかどうか自体を疑ってみる様子はなさそうだし、座談会も(当然といえば当然だが)外国語活動の導入を肯定的に捉えている先生のみで行われているので、そういう成功事例だけに寄らない「成果」と「課題」をこそきちんと把握・提示してほしいからだ。

この論説記事では、平成24年と平成27年に、「公立小学校第5,6学年児童、高学年学級担任もしくは外国語活動担当教員、小学校管理職及び、公立中学校第一、二学年生徒、英語担当教員、中学校管理職」を対象に実施された「外国語活動実施状況調査」の結果に基づいて、「成果と課題」を検討している。「成果」についての結論は、「外国語活動全面実施から4年が経つが、おおむねその実施状況は良好と考えられ」、「外国語活動を通して、中・高等学校における英語教育の基盤となる英語への興味・関心・意欲が高まっていることがわか」り、「教員自身もその指導についてずいぶん慣れてきたと考えられる」というもの(p. 29)。果たして依拠しているデータはそれを裏付けるものとなっているだろうか。

本当は元データを参照したいところだが、そもそもデータをまとめた資料すらなかなか見つからず難儀した。平成24年実施分はこちら、平成27年実施分についてはこちらを参照するのがよさそうだ。

これはこの記事に限ったことではないが、なぜ、5(ないしは4)件法で訊いたのに、その内の「よくあてはまる」・「まああてはまる」といった選択肢を束ねて解釈しまうのだろうか。肯定的(あるいは否定的)回答がこのくらいあったという傾向を示したい意図はわかるが、同じ「約8割が『あてはまる』と回答」というまとめでも、「よくあてはまる」1割・「まああてはまる」7割という結果と、「よくあてはまる」7割・「まああてはまる」1割という結果とでは雲泥の差があることは誰にでもわかる。ましてやこの記事は平成24年と平成27年の調査結果を比べて何かを言おうとしているのであるから、その分布・変化を示さないのはmisleadingだろう。ざっと見る限りの全般的な傾向で言えば、平成24年と平成27年の回答分布に大きな変化はなく、「英語への興味・関心・意欲が高まっている」とか「その指導についてずいぶん慣れてきた」と言える根拠は見当たらない。

もっと初歩的な問題は、質問項目がどれも誘導的であるということだ。この「成果」部分で言及されている児童に対する質問を挙げると、「あなたは、英語が好きですか」、「英語の授業は好きですか」、「英語が使えるようになりたいですか」。調査法に触れた授業やゼミならまっ先に指摘されるところだが、これは学生の質問紙検討ではない。文科省が既に行ってドヤ顔で報告している調査結果なのである。解説するのも憚られるところだが、「好きですか」という質問は「好きである」ということを前提としている。それに逆らって「いいえ、嫌いです」と答えるのには相当のエネルギーが要る。直山さんの記事は「子供の70.9%(70.7%)が、『英語が好き、どちらかと言えば好き』、72.3%(71.7%)が『英語の授業が好き、どちらかと言えば好き』と回答している」(p. 29)とまとめているが、このような(問題のある)訊き方にもかかわらず「英語の授業が好き」あるいは「英語が好き」と答えている児童は約4割しかいないし、18%は「どちらともいえない」と答え、約1割は(強い意思で)「どちらかといえばきらい」・「きらい」と答えている。しかも平成24年から平成27年にかけてその状況に変化はないのだ。このデータから本当に「外国語活動全面実施から4年が経つが、おおむねその実施状況は良好と考えられ」るのだろうか。仮にディズニーランドに来ている客に「ディズニーランドは好きですか?」と訊いて4割しか「好き」と答えなかったら、運営会社は相当のテコ入れをするだろうと思うのだが。

「これから英語を使ってしてみたいことは何ですか」という質問にしても、選択肢は「してみたい」か「してみたくない」かしかなかったらしく、「してみたいこと」上位の「海外旅行に行くこと」(84.4%)、「外国の人と友達になること」(77.1%)、「外国人と話すこと」(75.5%)は裏を返せば、2割以上の児童が外国の人と友達になることも話すことも「してみたくない」と答えているわけだ。さらに言えば、「英語で日本の文化を紹介すること」も半数近くが、「英語で書かれた本を読むこと」、「電子メールなどで外国の人と 英語でやりとりをすること」、「外国の映画を字幕なしで見ること」、「 英語を使う仕事をすること」に至っては半数以上が「してみたくない」と答えている。むしろこれは、「良好」でもなんでもない、困難と課題を示した結果と解釈すべきではないのか?(後半の項目については現行の外国語活動では読み書きは扱わないのだから仕方がないという話ではなく、単純に「これから英語を使ってしてみたい」ことを問うているわけなので、「児童の多くは(少なくとも調査時点では)英語を求めてない!」とすら解釈できてしまう)。

直山さんの記事で最も良くない(場合によっては悪質だ)と思うのは、中学校英語担当教員に対する「小学校において外国語活動を経験して入学した第一学年の生徒は、外国語活動導入前の第一学年の 生徒と比較して英語の授業において変容がみられましたか」という(これまた誘導的な)質問についてのまとめ。全体としては「とてもみられた」16.5%(18.3%)、「まあまあみられた」48.8%(59.5%)と肯定的回答はむしろ減っている(その原因は様々考えられ、時間の経過で記憶が薄れ、導入前の生徒との比較が次第に困難になったことによるのかもしれない)のだが、ここの部分の記述を見ると、「英語の音声に慣れ親しんでいる: 93.5%(73.2%)」というように、どの項目についても平成24年調査から平成27年調査でいずれも20%程度割合が増えたかのように見える(p. 28)。

どちらも中学校管理職・外国語科担当教員約3千人を対象とした調査だが、括弧内の平成24年調査の割合は、上記に続く「どのような成果や変容がみられましたか」という質問項目に対して無回答の(数値を見る限り、変容は「あまりみられなかった」・「まったくみられなかった」と回答した者)約600人を含めていることによるものである。一方、平成27年調査に関しては数値が示されていないので確かなことはわからないが、「あまりみられなかった」・「まったくみられなかった」と回答した者はともかく、「外国語活動導入前の第1学年の生徒を担当したことがない」と回答した19.7%は以降の「具体的にどのような成果や変容がみられましたか。あてはまるものをすべて 選んで下さい」という質問(平成24年調査と訊き方が微妙に変わっているのも良くないところ)に答えようがないので、ここに算入されていることはあり得ない。つまり、「変容がみられた」と答えた人の中に占める割合なのだ。実際、リンクの資料では平成24年調査についても無回答を除いた割合で提示している(これも良くないことだと思うが)。

こういったことを見てくると、やはり初めから結論ありきで、それに都合のいい形に恣意的にデータを解釈しているという誹りは免れ得ないだろう。周囲の人間にこのことを話したら、「えー、そんなの途中で誰かが気づいて言うでしょ、普通。文科省の仕事ってその人ひとりでやるようなもんじゃないよね?」という反応が返ってきた。尤もだ。しかし、質問項目や結果解釈のおかしさに「誰かが気づいて言うでしょ、普通」というものが文科省の調査として恥ずかしげもなく実施され資料として公表され、こうして『初等教育資料』という雑誌の記事に載ってしまっているのが現状だ。私の知らないところで誰かがツッコミを入れてくれていればと願うのだが、今日この記事を書くまで寡聞にしてそういう批判は目にしていない。私はそもそも質問紙調査や統計の専門家ではないが、もうここまでくると、何が専門であるかとかどういう職業であるかとかは関係がないように思う。「人は見たいように物を見る」という話でもあるが、まともな判断能力があって落ち着いて見ることができれば分かる話だ。何のため・誰のためのデータで、何のため・誰のための「外国語活動の成果と課題を踏まえたこれからの小学校外国語教育」なのかをよくよく考えていただきたい。

そんなミもフタもないことを書いた後で、大津由紀雄×直山木綿子対談(pp. 36-41)もへったくりもない気もするが、直山さんが「ことばへの気づき」に寄って、大津先生と少なくない点で「ことば」という認識の重要性を共有しているのは、上のようなデータだけで外国語活動(ないしは小学校英語教育)を推進していくのが苦しいという叫びのように私には思われた。上の記事では「データに基づいて」語っている同じ人が、小学校の先生に外国語活動を指導してほしい根拠になると、「先ほど先生がそれなりの成果は出ているとおっしゃったことは、きっと小学校の先生だからこそ生み出されたと私は思っています」(p. 41。下線は引用者)と「願い」しか出てこないのだから(大津先生が「それなりの成果は出ている」と言っている箇所は見当たらないのだが)。新自由主義的な英語教育推進論に偏らず、言語教育として捉える視点がこうして『初等教育資料』の特集中に置かれたのは大津先生が粘り強く訴えてきたおかげかもしれない。しかし他方で、こうしたナイーブな願望だけで言語教育政策が動かされ、「これから教員養成や教員研修を充実しなければいけません」とこちらに責任が投げられるのだとしたら、それは非常に迷惑な話だし、危う過ぎる。

もう一つ、「ことばへの気づき」の議論は、Hi, friends!にもそういう内容はあると例が挙げられているけども、形態論や語形成論の表層を超えたところでもっと面白い話がいろいろできないのかというのも正直思うところ。「それって、わざわざ授業でやるほどの話ですかね(含意: 小学生なめんなよ)」と思われては元の木阿弥だ。「温泉まんじゅう/まんじゅう温泉」は大津先生の定番で、児童・生徒・学生に考えてもらうと反応は悪くないし、アクセントに絡めた話ができるのもわかる。昔の「にせたぬき汁/にせだぬき汁」なんかの連濁の話も個人的には嫌いではない。だが、個別言語の特殊性と言語一般の普遍性を味わい考えさせる授業を展開したいのであれば、もっと統語論・意味論・語用論のレベルに踏み込む必要がある…と思うような気がしてならない気配が漂う今日この頃みなさまいかがお過ごしでしょうか(文末遊び)。

1 Comment

  1. 記事を読ませていただきました。
    直山さんの講演を聞いていて、違和感があった部分がすっと落ちました。
    現場は英語教育の必要性は分かっているのですが、教師も1人の人間ですので仕事量が追いつくものではありません。もう、ギリギリで自分の生活を維持している人もたくさんいます。その負担に目がいってしまって、授業時数増加、長期休業削減に、心が疲弊しています。
     無理ない形で取り入れる方法に目を向けてくれる、そういう配慮だけでもあると救われますが。

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