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という本がある。1985年に平凡社から刊行された単行本の文庫版で、大学院のゼミで指導教員がその一部をコピーして配ったことがあった。

私を含めたゼミ参加者が

  • Lyons, J. (1977). Semantics. Cambridge University Press.

を全然読み取れないことに業を煮やしたのだったか、最初のゼミで心構えとして訓示したのだったかは失念したが(年によってどちらもあった気がする)、生物学の岡田節人先生との対談の「本はケツから読め」という部分(pp. 124−132)を紹介したのである。少し引用する(pp. 128−130。下線は原文では傍点)。

 (中略)しかし、実際は入試だって、結構ゆとりがあって、感じが掴めているというか、見通しがきいているというか、そういう人の方が結局有利なんですけどね。何も見えないまま、自分が何をしているのかも意識しないで、ただ計算しているだけという答案が非常に多くなってきてはいる。なぜこうするのかという意識がない。それから、平常心に欠けている。

岡田 そら、あきませんな。

 因数分解してまとめるか、バラして展開するかという時だって、全く状況と無関係に、ただ何となく結んで開いてと(笑)。それ、実は入試にも不利なんだけどなあ。この頃はあまりにも意味に対する関心が薄れちゃって、なんせ機械的に式を動かしとるという感じ。その中から、漠然とした意味を掴み取る能力が失われてきてるんじゃないか。

岡田 あ、それや、本当にそうやと思うな。僕ら学生に論文読ますでしょ。生物学の論文というたら数式も何もない。絵やらグラフやら表はあるけれど、まあ、小説やな、初めからパーッと書いたあるだけ。それ読めというと、とにかく訳しよるだけね。どこがエッセンスかという事を一言でパッとピックアップする、そういう能力は、優等生といわれてる連中の中で持ってないヤツが多い。こら、ニッチもサッチもいかん。逐語的にやってたら、夜寝んと訳してんならん。

(中略)

 学生さんは案外ダメらしいですね、そういうのは。いつも学生さんに言うんやけど、アンタら今にたくさん読まんならんようになる、それも、日本語の本だけやない、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語とかいろいろあって、読めたもんやないと。

だいたい、本というのはケツから読むもんで、いる所だけ読めと。最初から読んだわけやないからようわからんにきまっとるけど、後は想像力で補うと。どうしてもダメなら、もうちょっと前を読む。本はケツから読むものだと。そういうもんでしょ。

岡田 そうです、もう、そうやってほしいわ(笑)。もうちょっと大胆になってもらわんと。生物学なんかにはそうでないとだめやな。

2月の前半に、卒業して教員になることが決まっている複数の学生から、勉強会開催の打診を受けた。聞けば、自分たちはそういう「夜寝んと訳してんならん」ような授業を受けてきてしまったので、リーディングの授業や文法指導をうまくやれるか不安でたまらないという。そこで興味のある学生・院生の参加を募って週1回のペースで勉強会を開催した。春休みにもかかわらず、何の単位にもならないにもかかわらず、10数名が集まった。自分が学生だったら来ていないと思うので、本当に頭がさがる。

詳細は別に譲るが、前半は物語文・論説文を素材に、いわゆる発問の作り方・問い方をやいのやいのと。考古学の論文出してきたり、イギリスのナショナルテストなんかも参考にしたり。自分が大学で担当するリーディングの授業の成果も還元する格好で、「読むこと」を中心に置く授業づくりを深めてもらった。

後半は、文法指導に焦点を当てて、

をテキストに、担当章からそれぞれが得たことをもとに10分以内の模擬授業をしてもらった。文法を英語で説明するとどういう感じになるかを味わってもらうために選んだ本書だが、ここで私が求めていたのはまさに、森先生の言う「いる所だけ読む」ということだ(本書の文章は非常に理解しやすく、「ケツから読む」必要はない気もするものの)。仮に各章でわかりやすい説明が与えられているとしても、おそらく授業でそれを満遍なく解説している時間などないだろう。そもそも「取り立てて文法指導をする」ということに時間を多く割けると考えるのは現実的ではない。だからこそ端的に教えるために「いる所」、つまり生徒にとっての勘どころを掴み取る力が求められる。そして、そのために例文を選び抜いて提示すべしというのが私からの要求。

47年前の本でも学びは実に新鮮である。6章ずつ2回でいけるかなと考えていたが、やってみたら意外と盛り沢山で、名詞編の4章分だけでも全力で思考して、みんなグッタリお腹いっぱいという感じ。動詞編に至っては3時間超の濃い時間となった。この「教育文法論」の集中講義のような勉強会の詳細も他に譲るが、終わって様々な感想が寄せられた中で、ある学生の感想で思い浮かんだのはやっぱり森先生だった。前にも紹介したことのある

の中に次のような一節がある(pp. 132−133。下線は引用者による)。彼らにとってこの勉強会は、リーディングや文法の授業が「よくわかっておもしろい」という感覚をもたらすことができるものだということを実感する機会になったようだ。

科学の価値は、科学そのものによってしか証明されない。いかに、科学は人間にとって必要であるか、未来は科学によって支えられるか、等々を説いたところで、それはオセッキョーにしかならない。人間は、みずから科学を獲得し、みずから理解を高めていく中でしか、その価値を理解することはできない。内容を伴わない「教育」についての議論が、しばしば空疎にうつるのは、おそらくこのゆえだろう。

民主的な教育研究の集会でも、よく「いかにして学習意欲をたかめるか」が論ぜられる。ぼくは、「たかめる」のではなく、「たかまる」のだと考えている。外的に、たとえば「未来の生活の展望を明らかにし」たところで、その知育の内部に「学習意欲のたかまるもの」がなければ、一時的な刺激でしかない。もっとも、ぼくは「学生運動家」の「挫折ムード」を見すぎているのかもしれない。ムードは挫折するかもしれないが、科学は挫折しないものだ。要は、「よくわかっておもしろいから勉強する」、それしか、学習意欲のたかめようはあるまい

外国語学習の場合は「できるようになって嬉しい」という要素もあるが、いずれにせよ、目の前の生徒が少しでもよくわかったりできるようになったりする、そういう授業づくりとそのお手伝い(のみ)に私の関心はある。そのことを再確認させてもらった。

別で論じたことだが、英語メリット論(特に幅広い情報へのアクセスみたいな話)が好きになれないのは、ポン引きのように(ひどい場合は特権的立場から)そのメリットを説くだけで、それに対する具体的な行動が伴わないことが多いからだ。できない人にとってみれば「へーそうですか、よござんすね」と思うより他ない。英語教師なら、利点を説くより先に、できるだけ多くの学習者がその世界を味わう手助けをすることに腐心すればいい話で合って、教育の話ではなかったとしても「本当に価値ある、知るべき情報だとあなたが思うなら、英語ができるあなたができない人に日本語に訳して届けてあげればいいじゃないですか」と思うのみである。だからこそ(逆説的に聞こえるかもしれないが)私は中高の英語が選択科目でいいとは思わない。英語ブルジョワジーにいいように搾り取られないためにも、その後別の外国語を学ぶときの学習法を知るためにも向き合っておこうぜという時間を制度的に保障しておく意味での「必修」であれば同意できる。

だから繰り返しになるが、英語教師の仕事は、英語(文化)自体の内在的な魅力によって学習者をなんとかかんとかこっちの世界に誘おうとふんがふんがすることであって、英語の実利的効用は(授業の一環として大いに見せたらいいけど)学習者自身が判断することだ。私はそういう考え方を結局、森先生(と森文献を紹介してくれた先生たち)を通じて形成したのだなあとしみじみ思った次第。