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誰が使い出したのか正確なところは知らないのだが,第二言語習得研究ではform-meaning mappingという言い方をする。教材や教師の言葉,言語活動中のやりとりを通じて理解可能なインプットに触れる過程で,言語形式とそれが表す意味との間に対応関係が形成されるということらしい。

母語獲得の場合と第二言語習得の場合とでは「写像」の様相はずいぶん異なるように思うのだが,それ自体は「(L2)言語習得」(の過程・結果)を捉えるための一つのモデルとして了承できる。ただ,「写像」という数学的概念を使う割には(全射であることは前提として)単射を想定しているのかそうではないのか,可逆なのかそうではないのか,よく分からない。モノ(特にSLA研究の理論に基づく実践報告等)によっては,単に「結びつき」という意味でこの用語を使っているケースも散見される(無理にmappingと言わず,connectionやrelationshipを用いればとりあえずは解決する)。

Bolinger (1977)の「形が違えば意味も違う」という立場からすれば,この写像は全単射として仮定されることになるが(以前書いた「『形が違えば意味が違う』のその先へ。」を参照されたい),Bolinger (1977)で説明されているような「意味の違い」は,form-meaning mappingという用語を用いる人が言わんとする意味とはずいぶん意味が違うように思う(ややこしやー)。

先日のワークショップで提示したような文法指導の問題例を紹介すると,「(その文法項目を)導入する際のform-meaning mappingとしては難しすぎやしませんかね?」,あるいは「複雑過ぎやしませんかね」と言われることがよくある。「難しさ」も解きほぐして語る必要があるのだが(問いの内容,つまり当該文法項目の概念・機能に起因するものなのか,それとも問いの形式や,使われている語彙によるものなのか等々),前者については概ね妥当な指摘だろう。Triggering and/or assessing questionsはそもそも,その名称が示す通り,当該文法項目の概念・機能について鍵となる側面を問い,学習者の中にコンフリクトを引き起こすことを目的としているからだ。敢えて「難しい」のである。だから,一連の問題は,その途中の時点では正解することも(練習問題等での)「正確さ」も求めないし,むしろ間違うことを推奨するものとして構成される(間違い観については今泉 (1994)を参照)。

他方,後者(「導入する際のform-meaning mappingとしては複雑過ぎやしませんかね」)についてはやや疑問がある。

このコメントが,提示・配列の順序とタイミングに関する疑義だとすれば議論し得る。質疑でお答えしたように,例えば進行相に関して,仮に中学校の教科書では”I’m walking.”とか”Ken is drinking.”といった現に目の前で起きている動作の用法(持続・非完結)しか登場しないとしても,後で他の用法について教えるということは十分あり得る。中学校の言語活動は現在進行形のこの用法を導入するまで色々と苦しいところもあるので,早い段階で登場するのにはそれなりのワケがあるのだろう。ただ,この用法だけで進行相を十分に教えたと思うのは間違いだ。むしろ上記の用法は自然な言語使用に触れているだけでも十分であり,明示的な扱いを必要としているのは他の用法だとも考えられる(Ken was jumping for joy.が,repeatedlyといった表現を加えなくても「繰り返し何度も」というニュアンスを表すことに中学生が気づくためには,どれだけの「理解可能なインプット」が必要だというのか!)。先日のワークショップで紹介したプランは一応そういうことを考慮に入れた上で作られているが,もっと良い方法はあるかもしれない(あったほうが嬉しい)。

しかし,そういうことを一切考慮せず,「導入する際のform-meaning mapping」を単に,「BEの変化形+動詞の-ing形」という形式と「〜している」という意味とを対応させることと捉えているとしたら,それはどうかと思う。適用範囲が極めて狭いmappingである(ために,私にはその文法指導が何の役に立つのか分からない)というだけでなく,多くの場合間違っているからだ(下線部はis being wrongとはならない!)。その誤解が,後で適切な理解を得るための必然的イベントとして筋道に計画的に配置されているならまだ分からなくもないが,このまま放置されて困ったことになっている学習者をわれわれは何度も目にしている。これは,ワークショップ中に説明した「will」と「だろう」や,「let」と「させる」にも当てはまることだ。だとすれば(教えるなら)最初っからちゃんと教えようよという一提案が先日のワークショップで紹介した問題群である。

語彙・表現についてもある程度同じことが言える。学生のエッセイを見ていると,例えばargumentativeなお題に対して,いきなり”In my opinion, …”と始めている(私もそうでした)。日向清人(@hinatakiyoto)先生がどこかで書かれていたと思うが,強く言い切るほどの権威でもなければここまでダイレクトな表現はしないだろうし,色々な主張を引いた上で,「とまぁ,わーわー言われておりますけども,私の意見なんぞを言わせてもらえるのでしたら」といった感じで使う(これは話し言葉でのほうがよくあるかしら?)のが自然なこの表現を,「私の考えでは」という「意味」のみと対応させてしまう指導にどれほど意味があるのか。

あるいは,frankly (speaking)を「率直に言って」とのみ対応させていて,(ビジネスなどで)「言いにくい内容を提示するとき」,「なかなか言い出せない話や話すのに恥ずかしいことを打ち明ける場合」に用いることや,そのため「家族や友人など,打ち解けた関係の人との会話に用いることは少な」いということにどれだけの学習者が気づけるのだろうか(内田(編), 2009, p. 142)。学生が,留学して仲良くなってきた英語話者に,「仲の良いあなただから言うけど」というようなdisclosureの目的で連発してちょっと変な空気になっていないか心配になる(私も未だにそういうことはちょくちょくあるのだろう)。

つまり――言語使用に触れる中でimplicitに起こるプロセスを指すのでないとすれば――「そういうところまで含み込んだ形で教えない限り,明示的文法指導において意味のあるform-meaning mappingなんて起こらないんじゃないの?」ということ(to be continued…)。