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正確に言えば(学校教育の一環としての)外国語教育に対して「インプット」(input)という用語を使うのはやめます、という話。実際のところ使うのをやめて既に2ヶ月になるので、さらに正確に言えば、外国語教育の文脈で「インプット」という用語を使うのをやめました、という話。以前からずっと違和感を持っていたのだが、

を読んでやめる意志が固まった。つい最近の『英語教育』誌でも「インプット」を冠する特集が組まれていたばかりで、英語教育関係者はこの用語に頼り続けるのかもしれないが、以下に使わない方がいいと考える理由を述べる。もう少し長い論証の予定があるが、さしあたりのメモ。

何が、どうして「インプット」になるかがよくわからない

「インプット」と言えば、コンピュータよろしく、何かが「入力」された感が醸し出されるものの、一体何が入力となるのかわからない、というのが理由のひとつ目。その解釈の恣意性ゆえに多くの人が勝手な意味で使っていて、しかもそのことを見えにくくしてしまうマジックワードのきらいがあるので、実践を語る際に使うのはやめてほしい。

第二言語習得(SLA)研究が、母語獲得の計算モデルに倣い、下図のように入力と出力の間に何らかの第二言語習得のメカニズムがあると考え、それを探究することを否定するつもりはない。学習者の頭の中を開いてのぞくわけにはいかないし、のぞいたところでそのメカニズムが見えるわけではないので、入ってくる言語刺激とその学習者が産出する言語からこのメカニズムに迫ろうとする、というのは研究方法として一定の合理性がある。


上記の特集で新谷 (2017)が述べているように、「インプット」をこの分野に広めたKrashenは、「言語の『習得』を、学習者に内在するシラバス(習得順序)と『理解可能なインプット』によって引き起こされる無意識の過程だと考え」る(p. 10)。図の「?」を駆動し第二言語の習得を導くのは(その時点の水準よりちょっとだけ上の)インプットであり他ではない、というのが彼の主張だ。そして、学習者が見聞きする音声・文字が何でも「インプット」になるわけではなく、SLAの議論において「インプット」という場合それが「理解可能なインプット」を意味するということを、これまでSLAの入門書・概説書が何度もくり返し強調してきた。

しかし、本稿の趣旨からは少しそれるが、そうだとすると、SLAにおける「インプット」がメカニズム研究の理論としてもうまくない仮定であるということは入門書・概説書は教えてくれない。なぜうまくないかと言うと、「?」で示されるメカニズムを説明するために、そのメカニズム(の一部)を使ってしまっているからだ(下図)。つまり、「どうして第二言語習得のメカニズムが働いたのだ?」→「理解可能なインプットが与えられたからだ」という論理と、「どうしてそのインプットが理解可能だったのか?」→「第二言語習得のメカニズムが働いたからだ」という論理が堂々巡りをすることになってしまう。

実はKrashen & Terrell (1983, p. 32)は、現下の水準よりわずかに上の、つまりまだ習得していない構造を含むインプットが理解可能なのはなぜかということに対して「文脈や言語外の情報がその答えだ」と述べているのだが、インプットを理解する仕組みと第二言語習得の仕組みを別に仮定するのでない限り、文脈や言語外の情報があるとなぜインプットが理解可能になるのかということは「?」に訴えないと解決しないという点で本質的な解決にはなっていない。いちばんの問題は、この仮定のもとで何かを証明しようとしても、無意識の過程である以上、インプットが理解可能じゃなかったのか、メカニズムが(働か)なかったのかが区別できず、いくらでも言い訳できてしまうところにある。

ということで「インプット」は、新谷 (2017)が冒頭で定義している通り、「学習者が触れる全ての言語」と捉えたほうがいい(p. 10)。そうすれば、それが教室での外国語教育で生じている現象を説明する用語として適切な網の目を持っているかどうか判断しやすくなるだろう。この枠組みを維持するためにひねり出されてきた「気づき」や「インテイク」等々の概念が有効かどうかも。

教師が自由にコントロールできるような誤解を招く

外国語教育実践に対して「インプット」を使うのをやめてほしいと最初に感じたきっかけはこれだ。

上で述べた通り、もともと「習得」に関連する用語であって、意図的な「教育」(意識的な「学習」)との相性は良くない(Krashen & Terrell, 1983, p. 37)。計算モデルにおける「インプット/アウトプット」という言葉も主眼は情報の方向を示すことにあり、SLA研究においても「学習者が触れるインプット」、「学習者が発するアウトプット」の域を出るものではないはずだ。ところが授業を語る文脈に持ち込まれると、「(教師による)(学習者への)インプット」という主客がこっそり密輸入されていることが多い。

そしてこの密輸入は、「ティーチャートークや教材を通じて、一方的に教師が与え(られ)るもの」という、より重たい余罪を招きやすい。特に、実践報告や授業の協議会で「理解可能な…」の意味で用いられていると、あたかも教師がその理解をいかようにでも左右できるという前提を感じて「ぐげげ」と唸ってしまう。そんな調子でこの用語を使っている限り、教師中心の発想からは永久に抜け出せないだろう。SLA研究はもともと教師の恣意性を排し学習者に焦点を当てることで進められてきたのに、その用語が教師中心の発想を後押しすることに一役買っているとはなんとも皮肉な話ではないか。

「インプットの質」や「効果的なインプット」といった言い方も良くない。上述の「学習者が触れる全ての言語」という定義を踏まえたとしても、SLA研究の歴史を背負った用語である以上、「インプット」は、そこから何が学ばれるかは教師の意図や学習者の意識の外にあるという前提を運ぶ。だとすればその質が高いか低いか、あるいは効果的か否かを、前もって誰かが決めることなどできるはずがない。SLA研究であれば効果的かどうかは(何らかの尺度での)習得の結果で判断されるにせよ、教室で「効果的なインプットを与えているのに習得しないなんてお前らは」と学習者が責められでもしたらたまったものではない。

学習者によることば・他者との主体的・能動的なかかわりが無視される

計算モデルは基本的に(教師という存在も捨象した)個々人に閉じた認知のメカニズムを問題としている。しかし、言うまでもなく教室内外での外国語教育で生じている現象はもっと複雑であり、授業が教師による意図的・計画的な働きかけを伴い、社会的な関係の中で行われる営みである以上、一方向的な入出力で説明できるようなものではない(Davis, Sumara, & Luce-Kapler, 2015, p. 181)。

SLA研究が重視するような無意識的過程で生じる学びがそこにあっても構わないし、実際あるのだろうが、逆に意識的な学習の側面を捉えようとしないのも不自然である。それを「気づき」だなんだと説明するのも一つの道筋かもしれないが、「インプット」の発想には、何より学習者自身が具体的な文脈の中でことばとどうかかわるか(下図の青い矢印)、他者との関係性の中でことばをどう受け取り、やり取りするかという視点が欠けている(佐藤・佐伯, 2017)。

この意味で、研究として好きでやる分には構わないが、「インプット強化」だの「インプット洪水」だのを声高に主張して教室に持ち込もうとするのはやめて欲しいといつも思う(例えば鈴木(編), 2017, Ch. 2)。確かにハンドアウトやスライドは見やすくセンス良くあって欲しいし、教師の説明にメリハリがあるに越したことはない。しかし、それが実際に「強化」や「洪水」になるかは相対的な問題であって、受け手がどう捉えるかを抜きに意図した「強化」が、授業にかかわる諸要因のなかでどの程度の寄与を持つものなのか改めてよく考えるべきである。確かに「山川の太字」でわれわれは歴史上の重要語句を覚えようとしてきたし、それに類するような現象に対して「それ、山川で言えば太字な」と何度も形容してきたが、それが私の歴史概念の形成にどれだけ寄与したかと言えば、視覚的に目立っているか否かはトリビアルな問題でしかないと言うより他ない。手紙の文字が涙で滲んでいた時にわかってもらえるかどうか、またどう受け取られるかは相手との関係や相手の経験次第であって、「インプット」の操作でどうこうできることなどではない。

 

以上、「インプット」という用語を使うのをやめた理由を説明してきた。目下の課題は、代わりとなるしっくり来る端的な表現がまだ見つかっていないことである。学習者の主体性を保ちつつ「英語受容経験」などと言ってみるが、不全感は否めない。たかが用語の一つじゃないかと思うかもしれないが、上に述べてきたように、用語とは特定の考え方の枠組みをそこに含んでいるものであり、われわれの思考は少なからずそれに規定されている。少なくとも私が、自他の授業をこういう言葉で語ることはしたくないと書くのは、その枠組みで外国語の授業を捉えてはいないし、捉えたくないということの表明でもある。本稿では触れなかったが、同様のことは「アウトプット」という用語にも当てはまる。

参考文献

Davis, B., Sumara, D., & Luce-Kapler, R. (2015). Engaging minds: Cultures of education and practices of teaching (3rd Ed.). Routledge.

Krashen, S. D., & Terrell, T. D. (1983), The natural approach: Language acquisition in the classroom. San Francisco, CA: The Alemany Press.

佐藤 慎司・佐伯 胖 (編) (2017).『かかわることば: 参加し対話する教育・研究へのいざない』東京大学出版会.

新谷奈津子 (2017).「効果的なインプットとは」『英語教育』66, 10, 10–12.

鈴木 渉 (編) (2017).『実践例で学ぶ第二言語習得研究に基づく英語指導』大修館書店.