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後輩の活躍が勝手に自分のことのように喜ばしい、

読者に分かりやすいように「塾」と冠されているが、原題はRegulating private tutoring for public good: policy options for supplementary education in Asiaである。学習塾を考えるためというより、教育に関する制度設計と調整を、狭い学校(いわゆる一条校)の範囲だけでなく、社会全体で考えるための視点を提供してくれる文献として重要だと感じた。

そのことは、「教育のすべての形態が個人や家庭、また社会全体にとっての有利な投資になるわけではない」(p. xxiii)という本書の認識と、第3章で引用されているFielden & LaRocque (2008)の指摘に端的に示されている。

政府は、教育の供給源がなんであれ、市民が適切な教育を受けることを確保する義務を負う。公的セクターの学校の場合、それは、予算内で許される限り、最も質の高い教職員や施設、設備や教材を確保するための仕組みが整備されるべきだということである。私的セクターが教育の供給源となる場合にも同様の原理が成り立つ。公的セクターと私的セクターの教育ができる限り質の高いものとなるよう、政府はすべての教育形態を見渡せる立場に立ち、ルールや規範について検討を進める必要があるだろう(pp. 28−29)。

重要なのは「良質な教育への万人の公平なアクセス」(p. xxiv)であり、その実現のためには公的セクターのことだけ考えていればいいということにはならない、というわけだ。

原著は(ユネスコと香港大学比較教育センターから共同出版された)ブックレットであるから、香港以外の各国・各地域に関する記述が大味であるであることは否めない。例えば日本の実態についても、大都市と地方で可能な学習塾選択の格差の状況や、特定の企業の自治体教委との連携の取組みといった情報にまで届いているわけではない。第4章の、各国で、営利の私的補習を学校の教師が提供することが認められているか否か、平たく言い換えれば「学校教員が塾講師や家庭教師をするのはOKか」の整理も、日本の読者には縁遠い話に思えるだろう。

本書の最後に付された「日本の学習塾の今日的状況と検討課題: 訳者解説に代えて」が、そこを埋める役割を果たしている。ここだけでも読む価値があるし、先にこの訳者解説を読んでから本体を読むほうが良いかもしれない。訳者の言葉を借りれば、

そもそも日本では、学習塾の設立時に許認可を受ける必要はない。管轄は、民間教育事業として文部科学省が行うのではなく、一サービス産業として経済産業省が行っている。規制やルール作りは、公益社団法人全国学習塾協会の取り組みが本書でも紹介されている(90頁; 早坂 2013)。しかし、そこに加入している学習塾は限られており、加入していない学習塾の教育活動や経営の適正化は、基本的には市場原理と自浄作用に委ねられている。このような日本の私的補習の特殊性は、他国・他地域と比較・検討することで、より一層際立たせることが可能になる(p. 129)。

「市場原理と自浄作業に委ね」切った結果、大学入試における民間試験活用の議論の際に、公平性や信頼性、「利益相反」等々、様々な問題が明らかになったのは記憶に新しい。経済産業省が主導する「未来の教室」も、本書の視点を加えて捉えるべきだろうし、「学校教員が塾講師や家庭教師をするのなんてあり得ない」と思っていても、目下の「休校」騒ぎでクローズアップされている、インターネットを通じた授業提供の諸問題について考え出すと、学校教員とprivate tutoringの境界はにわかに揺らぎ出す。

Regulatingと言うと取り締まりのように響くかもしれないが、学習塾関係者も本書を検討し、自分たちが教育において果たす役割や課題を考えておく価値がある。「私的教育の質に対する評価は揺らぎやすく、質の低い指導を提供する補習事業者に関する悪評が世間に広まってしまうと、私的補習セクター全体が評判を下げかねない」(p. xxiii)からである。

最後に、本書で提示されていない懸念を一つ述べておく。第6章で紹介されているユネスコによる教育の包括的な目標の4本柱(p. 71)、

  • 知ることを学ぶ(Learning to know; 知識を獲得すること)
  • 為すことを学ぶ(Learning to do; 専門化した職業教育ではなく、さまざまな実用的能力を身につけること)
  • 他者と共に生きることを学ぶ(Learning to live together; 他者を理解し、共通目標のために取り組むこと)
  • 人間としていくることを学ぶ(Learning to be; 個人の全き完成を目指すこと)

について、訳者解説では、私的セクターが公共的な利益を追求する際、現状は1つ目の役割が重視されているものの、今後は他3つの役割に広げて教育活動や運営を行っていくことになるという展望を示している。しかし、それを牧歌的に眺めているだけでは済まされないだろうというのが、JAPAN e-Portfolioなどを巡って最近、表面化している諸問題である。

つまり、私的セクターが1点目から他に重点を移すということは、ともすれば3つ目や4つ目にかかわる教育活動が、公的セクターではなく私的セクターでのみ提供されるようになるか、あるいは私的セクターに頼ることが「私的な利益」を著しく高めるような制度をもたらし、経済的に裕福な家庭の子どもだけがその恩恵を受けられるようになる危険性も同時に孕んでいる(あるいは既に実態として現れ始めている)ということである。だからと言って社会から教育に関する私的セクターが消えることはあり得ないのであって、だからこそ、本書が説く「より良い公教育のために、政策担当者、保護者、教師、コミュニティが私的補習提供者と協調・協同関係を築いていく」ことの重要性に改めて気づかされるわけだが。