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[雑感111] ギンズブルグ『ミクロストリアと世界史』より

[雑感111] ギンズブルグ『ミクロストリアと世界史』より

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ギンズブルグの訳書を久しぶりに手に取ったのは、今年刊行された『恥のきずな: 新しい文献学のために』を読もうとしたら、訳者解説が本書に収録された論考の解説のようになっていて「じゃあ先に読んでおくか」と思ったからであるが、当該の「わたしたちの言葉と彼らの言葉: 歴史家の仕事の現在にかんする省察」は、あるいは本書全体が、先日の北大での研究会で検討した

  • 寺崎 弘昭・白水 浩信 (2022).「西欧近代と日本の教育: 岩波講座『現代教育学』第4巻を中心に」田中 孝彦・田中 昌弥・杉浦 正幸・堀尾 輝久(編)『戦後教育学の再検討 上: 歴史・発達・人権』(pp. 13–32)東京大学出版会.

につながるものだった。寺崎・白水論考が教育学(ないしは教育思想史研究)に要求していることは、歴史学におけるギンズブルグの仕事と重ねると理解しやすい。

表題に含まれた「ミクロストリア」の面白さは、最初に収められた「緯度、奴隷、聖書: ミクロストリアの一実験」に凝縮されていて、ギンズブルグの訳書を手に取った理由のもう一つはこうした考え方を実践(記録)の検討や授業研究一般に活かせないかとぼんやり考えているからである。

教育方法学・英語教育学を専門とする者の読書範囲をさすがに超えていると思われるかもしれないが、ギンズブルグは、『人間と教育』106の拙稿「エビデンスに基づく教育は何をもたらすのか」で引用している(『歴史・レトリック・立証』から)。そもそもこれは、上記の北大での研究会でかつて、『教育学研究』82の今井康雄論文(「教育にとってエビデンスとは何か: エビデンス批判をこえて」)の報告者を務めた際に引用したものである。その少し前に三中先生の統計学の本に引用されていて存在を知ったのだと記憶するが、(「歴史の概念について」の)「歴史を逆撫でする」という象徴的なフレーズと共にヴァルター・ベンヤミンに言及があって興味を惹かれ手に取ったのだった。そこでギンズブルグはフーコーにも言及しており、寺崎・白水論考もフーコーの「言説体の系譜学」への言及で締め括られている。

要するに、いろいろ読んでいるとこういう風につながることはちょくちょくある。たとえば上記のベンヤミンも一昨年末から『パサージュ論』が岩波文庫で刊行され、それを読むために鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』を手に取ったら、これに大いに触発されて、学会での報告と、北海道教育学会誌の拙稿がもたらされたと言ってもよい。他の人がマネすべきこととは全く思わないけれども。

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