前記事の「完成品としての教師モデル」という言い方は,

所収の山崎先生の論考(第1章「教師になること/教師であることの現在」,pp.3-22)によっている(しかし,この本を手に取る以前の2011年の記事で「即物的完成品としての教師像」という言い方をしているので,もともとは別の文献や学会等で触れてそういう考え方を持っていたのだろう)。

前記事の文脈的補足として,いくつか引用しておく。

…(中略)…とくに近年の少なからぬ初任者が感じている同僚・保護者からのまなざしは,「一方では『新米』扱いされるのに,他方では『一人前』の仕事を要求される」というものである。つまり,個人としては力量がない「未熟者」として遇されるのに,仕事上では新米の「権利」としての失敗や試行錯誤(こうした失敗・試行錯誤を含み込んだ教師の成長論として,佐藤・山崎ほか,2012を参照)を許されないというダブルバインドである(p. 9)。

…(中略)…こうした対「大人」関係の困難は,生徒の立場からはみえにくい。そのことが,第1節で挙げた「教師受難の時代にもかかわらず教職人気はそう衰えていない」ことの主要な原因なのではないだろうか。そうだとすれば,そこからさしあたり以下の課題を指摘することができる。それは,教職課程履修開始時点ではこうした困難を認識していない(がゆえに,教育実習や採用後の学校現場で「リアリティ・ショック」にさらされがちな)教職志望者たちを,いかにして教師として育てていくかという「教員養成」の課題,さらには,初任期以降の教師としての成長をいかにして促進するかという「教員研修」の課題である(pp. 10-11)。

ここ20年前後に実施されてきた教員の資質向上策を概観すると,まず全国的なものとしては,「初任者研修」(1989年〜),「10年経験者研修」(2003年〜)といった法定研修や「教員免許更新制」(2009年〜),教員評価の強化(2000年前後〜)といった,①採用後の資質能力向上策と,「教職に関する科目(個別教科の内容でなく,指導法など方法・技術面)」の強化,新科目・体験等の設置(「介護等体験」,「教職実践演習」など)といった,②教員養成課程の改革,および「教職大学院」(学部新卒者の新人教員としての養成と,中堅教員の資質向上,ミドルリーダーとしての育成とを行う)設置など,③養成課程・採用後の研修の両者にまたがる施策,という3つの流れが確認できる(p. 11)。

…(中略)…これら施策のいちいちについて詳細に言及する紙数はないので,やや大胆に主要な論点を提出する。 第一に,「教職大学院」「教職実践演習」,さらに,実現可能性は未知数ではあるが,中央教育審議会「教員の資質能力向上特別部会」から提案された教員養成の「修士レベル化」も含め,直近の改革および改革構想には,「養成課程修了段階で教員としての基礎的力量を備えた『完成品』を輩出すべし」とでもいった,おそろしくリアリティの欠如した発想が顕著である。…(中略)…さらに,新規採用時に「完成品」を求める動向の「副作用」として,初任者が,傍目に破綻のない指導を志向しがちになるということがある。そこでは表面的に子どもが「落ち着いている」ことが強迫的に求められるため,管理的・高圧的な指導に傾斜しがちになる。教職初期にそうした「癖」をつけた教師がその後壁に突きあたった時,柔軟に対処していけるかははなはだ疑わしい(後略)(p.12)。

英語の「授業は英語で行うことを基本とする」 という要請に縛られるあまり,生徒を置き去りにして「授業を英語で行うこと」だけに必死になっている高校の先生を一度ならず見てきた。これも似た「副作用」であろう。

重要なのは,子どもが受ける教育の質がどうかということである。未熟な教師の存在それ自体ではなく,一人の教師の未熟さが教師集団・学校によってカバーされないことこそが問題なのである(p. 13)。

英語教育関係者がこの文献を手に取る機会は少なそうだが,山崎先生の章に限らず,全体として一読を薦めたい。特に教員養成課程に携わる者にとっては,自分の学生が直面する・していることとすぐに結びついて読めるであろうから。

私は,教員採用試験を控えた4年生と教育実習を控えた3年生とのゼミで,第4章「新人教員の苦悩に対して教員養成には何ができるか」(杉原真晃)と第10章「教師はどのようにして生徒の学びが〈みえる〉ようになっていくのか」(吉永紀子)を検討した。