4月からSkype読書会で

を読んでいる。そこで感じた用語の(実践的な)受け止め方の話。

第2章ではprocessing instructionが取り上げられており、冒頭で言語学習における「インプット」の役割と、processing instructionの基盤となるVanPatten (1996, 2002, 2004)の「インプット処理」のモデルが紹介されている。

ここで「インプット」とは、「学習者が、その命題内容(メッセージ)に注意を向けて聞いたり見たりする言葉」を指す(VanPatten, 1996, p. 10)。「インプット処理」は、学習者が文法形式をその意味や機能とどのように結び付けているか、つまりインプットに含まれる形式を学習者がどのようにゲットするか、意味を理解しようと努めている最中に文をどのように解析しているかを説明しようとするものである(Nassaji & Fotos, 2011. p. 21; VanPatten, 2002, p. 757)。

ここではさらに、その処理のプロセスの関連概念が説明されている。Perception, noticing, intakeの3つ。Perceptionは、”the registration of acoustic signals present in an utterance that the learner hears”と説明されている(Nassaji & Fotos, 2011. p. 21)。つまり、(書き言葉の場合どうなんというのは措くとして)「こんな音が聞こえますね」と学習者が認識することだ。例えば今「Nassaji先生のなんて本?」と横の人に聞かれて上の書名を伝えた時に、/klǽsrùːmz/という音として受け止められたことを指す。Noticingは”the conscious registration of those forms in memory”、つまりその形式が意識的に記憶に留められることを言う(Nassaji & Fotos, 2011. p. 21. この用語の定義問題には今は触れない)。同じ場面で、相手が「’classrooms‘って、/z/って言ってんな」と気づいたかどうか。

この話のところで引き合いに出したのが次の広告動画。まずは観てみてほしい(自動車事故に良くない思い出がある方、心臓の弱い方は注意)。What are they talking about?

昔担当していた授業で紹介していたのだが、最初は「何を言っているのか全くわからない」というミルコ状態がよく見られた。何回か”like”と言っていたのに気づいただろうか(読書会中はうろ覚えでsort ofと話していたがwhatever)。How many times did they say “like”? Let’s try again.

そういう風に水を向ければ外からnoticingが与えられるわけだが、それがなくても2、3回見せると特に助手席の男性が/laɪk/という音を発しているのは認識してもらえる。これがperceptionの状態(この例は語彙レベルの話なのでちょっとアレだが)。Nassaji and Fotos (2011, p. 21)によれば、”Both perception and noticing can take place prior to or without assigning any meaning to a particular form”ということで、この”like”の意味が理解できていなくても、perceptionとnoticingは起こり得る。それに対して「インプット処理」は両者を伴うだけでなく、形式に意味も割り当てられる。そこが違うというわけ。So, what does “like” mean in this conversation?、みたいな

と長々説明しておいてなんだが、要するに別段驚くようなことは言っていないのである。ちょっと考えれば、人がいつも100%つぶさに話を聞いているわけではないのは母語でも当たり前で(ディオ「お前は、お前のパートナーがした話を全ておぼえているのか?」)、/osasatta/や/izui/は私が接する学生の多くには音として認識されても意味や形は伝わらないかもしれない。Noticingした学生が意味を尋ねて会話が展開するかもしれないが、流されたとしてもそれでどうということはない。その一方で、私は「あ『おささった』って言っちゃった」と思ったり、彼らの「そうだら?」、「ばかアタマいいじゃん!」という言語使用を興味深く思ったりする。

第二言語習得のメカニズムを知りたい人たちがこういうことを考えるのは至極尤もだ。特に異論はない。少なくとも私は、こういう風に分析的に物事を説明していくのが嫌いじゃないので、現象の見通しが良くなる限りにおいて、研究としてどんどんやってくれいと思う。

気になるのは、実践レベルでのその受け止め方だ。「人は見聞きしたものを100%そのまま受け取っているわけではない」、「学習者は(量的にも質的にも)教えた通りに学ぶわけではない」という当たり前のことさえ了解していれば、perceptionとかnoticingといった概念を区別できなくても困ることはないし、自分の実践を説明する上で持ちだす必要もないだろう。

Noticing the gapというとなんだかカッコよさげだが、実践レベルでのゆるい理解であれば、それは自然科学教育や算数・数学教育の実践史においてはむしろ古典的常識に属する話だ。2+8, 5+5, 21+29, 35+35, 47+53と加法の問題を並べれば、「繰り上がり」と「0」を処理しなければならない問題だと気づく人は気づく。それをどういう内容と順序で与えればどのようなつまずきと気づきを児童にもたらすかというのは、水道方式の名を持ちだすまでもなく、まさに足し算指導そのものであり、昔からずっと先生がたが試行錯誤しながら実践を積み重ねてきた話である。Noticing the gapという概念がその指導に何か新しい地平を切り開いてくれるわけではない。

特に、まだ説明していない”intake”はタチが悪い。Nassaji and Fotos (2011, p. 21)では「インプットの内、学習者が気づき、その後の処理のためにワーキング・メモリに蓄えられた部分」を指し、「言語学習の基礎となるもの」と説明されているが、それが一体どういうもので、何を持ってintakeが起こったかが簡単にわからないからSLA研究はつらいよなのだ。私には(それが大事なことはわかりきっているので、実践的には)「それを言っちゃあおしめえよ」とさえ思える、言わば事件の黒幕みたいな概念である。

元々はCorder (1967)がインプットと区別するために用いた用語らしく、「漫然と見聞きしているだけでは外国語は身につかない」という(これもある意味で当たり前の)ことを確認する意味ではそれなりの必要性があったと思うのだが、その後の論者は「蓄えられたが、まだ習得されていないもの」という意味で用いたり、インプットに対する処理の結果ではなく過程の意味で用いる論者もいたり、人によって定義が異なることが事態をいっそうタチ悪くしている(VanPatten & Benati, 2010, p. 98)。いま言及したVanPatten and Benati (2010)やLoewen and Reinders (2011)で”Intake”の項はいずれも、冒頭から「論者によって定義が違って参っちんぐ」という言い訳で始まるぐらいだ。

念のため繰り返しておくが、第二言語習得のメカニズムを明らかにしたい研究者たちがそういう風にしてあれやこれや探究するのは自由だし意味もある。私が危惧するのは、論者によって定義も異なる、それ自体よくわかっていない抽象的な概念が実践にドヤ顔で持ち込まれることによって、あたかも実体のあるものとして捉えられ、授業が解釈されるようになることだ。物体が空中にある時の物理法則を全て明らかにしてから人類が飛行機を飛ばしたわけではないように、呼吸器系や消化器系の化学的な仕組みがすっかり分かってから人類がその辺の病気の治療を始めたわけではないように、実践がそれに関わるメカニズムの解明を待つ必要はないし、ましてやメカニズムもどきに縛られるのはマイナスだ(ちゃんとそれが明らかになった暁には頼ったらいいけども)。むしろ重要なのは、ここで紹介されているactivitiesがくっそつまんなくて「これじゃあ全然ダメだ」とnoticingできること、processing instructionが自分の授業で真価を発揮できるとしたらどんな工夫があり得るかを考え実践できることだと思うのである。

 

References