ようやく読書の時間が取れて、腰を据えて読みたかったため積ん読状態が続いていた

を読了。本当に良い本。『学びをつむぐ: 「協働」が育む教室の絆』  は「英語教師になる人のためのブックリスト(私家版)」にも挙げてあるが、その続編ともcodaとも言うべき本書。『学びをつむぐ』は単著だが、本書は金子先生を中心とする多様な「声」でつむがれているのが良い。

同校は、「さまざまな困難を抱え、挫けがちな生徒をケアしながら学校という社会に包摂し、信頼される大人への成長を支えることを目的として」、「対象世界・仲間・自分自身との関係の編み直しとしての授業をより質の高いものにし、すべての生徒の学びを保障することを機軸とし」た授業研究会を重ねてきた(pp. 3–4)。その試みは、1990年代以降の「教え」から「学び」への転換の背後、あるいは「能動的な主体」像に透ける「何にも依存しない、自立した強い個人というイメージ」(p. 99)への違和感を根底に持って、「①子どもたちに普遍的・標準的発達過程を設定することはできない、②子どもたちは他者との協働を通じて成長し発達する、③他者とどのように/どのような協働をするのかによって子どもたちの成長は異なりうる、という発達観をわれわれに提示するものとなっている」(p. 230)。

特に若い先生がたの成長の足跡が語られているのが素晴らしい。

本質的な問題とは、金子先生に何度も授業を見ていただき指摘を受けていた通り、深い教材研究から生まれる「問い」の質であった。私は教科としての魅力が感じられない「問い」ばかりを生徒に投げかけていたのだ。生徒たちが上げていたのは、批判的な声というより悲鳴だったのだ。そのことにきちんと向きあえないまま私は新任の一年目を終えた(p. 71)。

金子先生の著書『学びをつむぐ』の中に、「文字の羅列にしか見えない教科書も、ひとりでは何となく見過ごしてしまう絵画資料も、友達の視線やことば/考えが介在し、重ねあわせられることによって、たんなるモノthingから対象objectへと変化する」という一文がある。ある日の授業で、英語が嫌いな生徒が、グループのメンバーから「ねえ、これどういう意味だと思う?」と尋ねられたことで、その生徒にとって何の興味も湧かなかったただの紙が、一緒に取り組むべき「教材」に変わった瞬間を認識できたことをいまでも覚えている(p. 119)。

といった記述を、金子先生の看取りや共同研究者の考察としてだけではなく、本人の当時の記述や当時を振り返った言葉として読めるのは貴重だ。そこかしこの記述に登場して先生がたにそっと寄り添う金子先生は、『まんがで知る教師の学び』(前田康裕)で描かれてる吉良先生を地で行っている。英語授業を語る会・静岡でも紹介したいし、私がいま関わっている高校にも配って歩きたい。当然、私自身の関わり方についていろいろ反省もした。願わくば、学校も超えたレベルとなるが、英語授業を語る会・静岡の活動がこういう本に結実すると嬉しい。

上の引用で「英語が嫌いな生徒」と出てくるが、本書には(金子先生の)社会科だけではなく、英語の先生が2人登場する(保健体育の先生の振り返りも味わい深い)。しかし、現在までのところ見聞きする限り、英語教育界隈で本書が話題にされたようには思えない。あるいはここまで書いてきたことも、界隈には「また教育学が情緒的なことを語っているな」と思われるのかもしれない(実際の高校で現に起こってきたことに基づいているにかかわらず!)。この断絶にこそ、いまの英語教育に最も欠落しているものの一つが表れていると感じる。以下の金子先生の文は、こういう視座を持って学習者と向き合ってきたか、あるいはこれから持つ用意があるかどうか、それに対峙するに足るものを提示できるかという意味で、学校英語教育関係者に対してこそ向けられるべきではないか(p. 172の記述も併せて読まれたい)。

子どもは「いま」を生きている。その「いま」には過去の残響と未来の予期が含まれているが、残響にはノイズがたくさん含まれているし、予期には明確なベクトルがない。どこからともなくやってくるものとの戯れが、子どもたちの「いま」を生成させている。未だ知らないものとの遭遇が世界を起ち上げ、活気ある場を生みだしていく。

もちろん、おとなも「いま」を生きている。しかし、その「いま」に浸透している過去は、そうなることになっていたはずだという視点から整除されてしまっているし、未来はすでに志向性を強く帯びている。かつて子どもだったおとなは、いまここに至るまでに、そうではない可能性もあったはずなのに、それはなかったことにしてーーなかったことにできる存在が「おとな」と言うこともできるーー過去から現在に至る最短距離を直線で結ぼうとする。偶然の出会いの連続だったことは忘れて、それを然るべく辿った道、必然とみなす。その延長線上に然るべき未来を予期する。

そして、偶然に翻弄される子どもたちを、然あるべし/然るべし/しっかりしろと叱り、系統性と言う名の必然へと導くのである。偶然を生きる子どもたちと、必然をよしとするおとなたちとの出会い方のグラデーションが、学校という場に駆動力を与えながら、さまざまなヴァリエーションを生成させていく(pp. 280–281)。