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もう一冊の夏休み課題図書。

読み始めたらムカムカが止まらず、一気に読んでしまった。

結論から言えば、前の記事でレビューした金谷ほか (2017)と同様に、言語観・教授=学習観が根本的に異なることの確認に終始した(座談会のpp. 174–175あたりに顕著)。自分の身に置き換えて考えてみればわかるように、一度教えてもらったからといってすぐ使えるようにはならないという前提はご尤も。「学校英語教育では、新しい事項の『導入』には割合、心を配りますが、以前習ったことの『定着』への意識は希薄」(p. 6)で、「教えたら生徒は覚えるもの」(p. 164)という思い込みが教師の側に少なからずあるという指摘も少なからず当たっているだろう。しかし、その前提と課題意識から導き出される「こう考えてくれば、中学で習ったことが生徒たちの頭の中に確実に根付いて使いこなせるようになるのは、高校に入ってからだと考えるのが常識でしょう」(p. 7)という論理や、5ラウンドシステムで全面展開されている「うるし塗り」(p. 172)の考え方から察するに、彼らにとっての知識・技能の学習とは線形の、ゼロから始まって単調増加する類のものなのだろう。ここで詳しく説明はしないけれども、認知的葛藤と他者との関係性にドライブされて豊富化と再構造化を繰り返す、といった発想は全くなさそうである。

仮に言語観・学習観、あるいは言語的コミュニケーション観に齟齬がないとすれば、本書の調査で高校生に課したテストの妥当性が低すぎると言わざるを得ない。本書の調査目的は、「高校生がどのくらい中学で習った英語を使いこなせるようになっているかを知ること」(p. 178)である。書名の「中学英語」の意味もそれほど自明ではないが、本書では、中学校の(学習指導要領の内容に準拠した)検定教科書、あるいは中学生用教材で扱われている語彙・文法のことを指しているようだ。その「中学英語が定着している状態」については「中学英語が自由に操れる状態」と捉えている(p. 8)のだが、「自由に操れる」、「使いこなせる」とはどういうことなのかについてはそれほど十分な説明が与えられていない。第1章に記述されているようなざっくりの印象で受け取るとしても、本書で調査されている5種類6つのテスト(速読、Listening、Dictation、和文英訳、Picture Discription 2種類)がそれを測っていると言えるのはどうしてなのか説明がない。テスティングの観点から等化だなんだと騒ぐつもりはない(私よりもっと適切な人が言ってあげたほうがいいとは思う)が、自分たちのテストの妥当性を疑うことなく、高校生が「中学英語」を使いこなせていないと断定的に論じ続ける様ははっきり言って不快だ。

例えば「速読」について、1分間にどれくらいの語数を読むことができるか(WPM)を調べているのだが、ここでのWPMは、173語の文章を読むのにかかった時間にT/F式の内容理解問題5問の正答率をかけて算出されている。問題を解いている時に英文を読み返すことはできない。なぜだ。音声ではなく文字なのに、なぜ必要な時に読み返すことを許してもらえない。何かの罰なのか。あなた方もListeningの章のまとめに「音声で英文を聞く場合は、読むときとは違い、前に戻って読み直したりすることができません」(p. 44)と書いているではないか。あなた方だって、必要なら本でも書類でも何度も見返すでしょう。しかも内容理解問題はフランスかドイツかとか、15世紀か19世紀かといった、テクストの趣旨の理解というよりも局所的情報を注意深く見ていたかどうかを問う、非常につまらない問題で、さらに言えばジーンズにまつわるエトセトラついてちょっとした知識があれば読まなくても答えられそうな類のものだ。しかし結論は、「結果、中学英語で書かれたものであっても、英文をスラスラと読める生徒は多くないということが分かりました。正確に速く英文が読めないということは、中学英語を自由に使いこなして読むことができていないということになります」(p. 27)というもの。…。

あるいは、何の脈絡もないバラバラの文を18個も続けて聞かされるDictationテスト。しかも、「聞いた英文を忘れないように頭の中で繰り返そうとするときに」「丸暗記に頼りにくく」するために、書き出す前に「カーレースのスタート時のカウントダウンの音声」が流れるという条件で。拷問なのか。「今回の調査と同じ課題をALTなどネイティブスピーカーに何度もやってもらっています」(p. 179)とあるが、Serious?と彼らに問いたい。日本語で同じことをやったとしても絶対にマトモな結果を残せる気がしないのだが、私が偏屈だからだろうか(勤勉なALT対象ではなく、英語圏で同い年ぐらいの人たちがそもそも付き合ってくれるかやってみてほしい)。「このくらいのことができて初めて、『中学英語が使いこなせている』ということができるだろうと、私たちは考えました」(p. 48)とあり、もしそうなら、その意味では一生「使いこなせ」なくてもいいと思ってしまったのが正直なところだ。これまでの人生で、仕事や研究で英語を用いたり、趣味で映画を観たり本を読んだり音楽を聴いたりする際に、そんなことはできなくても困ったことないもの(Cf. 「中学英語」を「使いこなせ」ない私でも、TESOLのSummitでそれなりに役目は果たせましたよ)。

したがって、本書の調査で私にとって意味を持つのは、第5章末尾の「中学英語を『書くこと』について、ほとんどの高校生ができていること」4点のまとめと、第7章の「どれくらいストーリーのある文章を書けるか?」の調査について「今回の調査に協力した高校生の7割強が、英語で『物語のエッセンスを全て説明できた』と評価された」(p. 139)という結果のみである。あとは、第4〜7章で、生徒が実際に書いた文をいくつかのパターンに分けて示しているのも、ある程度参考にはなる。しかしそれとて、キリがないのでその一々をここでは指摘しないが、「書くこと」についても上で指摘したのと同様の問題を多く抱えたテストで産出された、あるいはされなかった英文だから、分析を額面通りに受け取ることはとてもできない。

そのことと関連して、本書を通読して私が最もムカムカしたのは、「書く」という行為に対する意識の低さ、というか想像力の無さである(去来した単語はdisrespectful)。第5章の和文英訳でDictationテストと同様に、”The watch broken by Ken was a present.”とか”After my son came home, I cooked a special dinner”(高校1年生だよ、おとっつぁん!、もしくは、おかあちゃん!保護者の方!)とか、何の脈絡もない10個英文を書かされる。こんなことは現状では日本全国に蔓延しているので、まあいい(全然良くない)。問題は第6章の(ごちゃごちゃした1コマの)絵描写タスクだ。「絵の中の登場人物が単純な動作を行っているため、中学英語を使った基本的な英文を、制限時間内にどれだけたくさん書けるかということを調べました」(p. 111)。なぜだ。なぜ「制限時間内に」「たくさん」書かなければならないのだ。生放送の実況中継の訓練か何かなのか。いや書き言葉だ。連載を何十本も抱えて常に編集者が原稿を待ち構えている売れっ子作家か何かなのか。先生、締切はちゃんと守ってくださいね。論文は書いているんですか。誰の目線で、どこにフォーカスしろと言うんだそもそもの目的を教えてくれ、5分も必要なのか、convince me.

当たり前過ぎて書くのも憚れるが、人が何かを書くのは、誰かに伝えたいメッセージがあったり、自分の考えを整理するためだったり、表出したい感情があったりするからだ。そして会話に相手がいるのと同じように、書くことの先には(想定だけだとしても)読み手がいる。多くの場合、読者は無制限にたくさん書かれたものを読みたいとは思わないし、できるだけたくさんの詳細な描写を必要とする状況はそれほど自然なものではない。本人がそうしたことをどの程度クリアに自覚できているかはともかく、他の技能と同じく書くことは(というより言語使用がそもそも)人に強制されてするようなものではないし、それは書くスピードや量に関しても当てはまる。もちろんSNSでのやり取りやビジネス・メールなどで、書き言葉でも実質的に時間的な制約がかかることはある。しかし、そうした目的に応じて課される条件の幅の中でも、アイデア・ジェネレーション、つまりそこから何を切り取るかということに考えを巡らせることに時間をかけたい人もいれば、ある程度書き進めてから念入りに推敲をする人もいる。とにかく思いついたことを吐き出すのが好きな人もいれば、一、二文で端的にズバッとまとめたい人もいる。言語の線状性という特徴に対して、音声であればフローとして流れ去るところを、ストックとして固定し、前後を自由に見直せるのが文字の文字たる所以である。いったん寝かせて後で取り出すのも自由なら、正確を期して辞書を引き引き確認に確認を重ねて仕上げるのも自由。われわれには言辞を弄する自由もある。スピーディーにたくさん書いて欲しかったら原稿料をはずんでくれ←。少なくとも、「いくら複文を書けたからといっても、5分間全てを使って1文や2文をひねり出しているということは、1文を書くのに2〜3分もかかっていることになります。これらの生徒は、時間がもっとあればある程度の量を書けるかもしれません。しかし、中学英語を自由自在に使いこなすレベル、つまり簡単な英文をスラスラと書けるようには、まだまだ練習が足りていないといえるでしょう」(p. 121)などというまとめは、私からすれば余計なお世話でしかない。

6つのテストで測られるものは、あくまで本書における「中学英語」の「定着」度合いの代理指標である。例えば第6章の絵描写タスクについて言えば、「定着」度合いが高ければ高いほど英文を正確に速くたくさん書くという想定の下、5分で「どれくらいたくさん書けるか」というテストを通じて産出された(語順に誤りのない)文の数や総語数、1文当たりの語数といった量を集計している。上の段落で長々書き連ねたことはその想定がそもそも正しいかどうかを問うものであるが、正しいとすれば、行う作業が実際の言語使用状況と乖離しているとしても、想定とは合致している。

この点で、第7章の(ストーリー性のある6コマの)絵描写課題の扱いは(私にとっては本書で唯一有意味なテストに思えるだけに)いっそう残念なものとなっている。15分間で(実施条件として時間無制限というわけにはいかないので、これは許容するとして)「どれくらいストーリーのある文章を書けるか」というテストであるから、そこにある想定は、「定着」度合いが高ければ高いほど重要な情報を落とさず順を追って筋を記述できるといったものであるはずだ。だから「今回の調査に協力した高校生の7割強が、英語で『物語のエッセンスを全て説明できた』と評価された」(p. 139)という結果が意味を持つと上で述べたのである。言語的にはさらに、出来事の順序を示すような談話標識や、座談会(p. 160)で指摘されているように、代名詞の適切な使用などを通じて表現される結束性を分析するのが自然だろう。

ところが本書では、代名詞や時制の分析はわずかにあるものの、全体としては第6章と同様に文の数や総語数、1文当たりの語数を分析し、談話レベルではなく文レベルで語順やbe動詞・不定詞・受動態・語法の誤りを考察するにとどまっている。結局このテストに対しても「定着」度合いが高ければ高いほど英文を正確に速くたくさん書くという想定を当てはめ、生徒にそれを求めているわけだ。だとすれば、わざわざストーリー(プロットとの違いが認識されているかどうかも怪しいが)を書かせる意味は何なのか。文法的な誤りの特徴を分析することに意味がないとは言わない。しかし、「この漫画を見たことがない人にも伝わるように」という指示(評価基準)はあるが、誰の視点で、誰あるいは何について語るべきなのか定かではなく、物語特有の構成や話法についても考慮はない。そんなことも現状では日本全国に蔓延しているので、気にならない英語教育関係者のほうが多いのかもしれないが、端的に言って、もっと「書く」という行為を大事にしてほしい(無論、他の技能もだが)。個人的には、機械的なテストで、正確で速くたくさん英文を書くことをあからさまに求められているほうが、学校時代の苦い思い出として処理できるだけまだマシだ。書くことを根源的に嫌いにならずに済む。

こうしたことから、本書を通じて「書く」という行為に対する意識の低さにムカムカせざるを得ず、テストの妥当性が低すぎると言わざるを得ず、私とは言語観・教授=学習観が根本的に異なることを確認せざるを得なかったという次第だ。「今までの話で出てきた、中学英語が定着しない原因に共通しているのは何か、と考えてみると、生徒本位ではなくて、先生本位で考えていることです。言い換えれば、送り手の論理だということです」(p. 165)という指摘は、そのままお返ししたい。生徒=英語使用者本位の英語力を調べる調査になってますか、これは送り手=叩き込み者の論理でしょう、と。