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「教材を」教えるのか。「教材で」何かを子どもに教え学ばせるのか。こんなことさえあいまいになっている一つの理由は,経験主義の教育観からきていると私は思う。教科の系統性を科学の系統性に基づいて考えるのではなく,子どもの生活経験に基づいて考えようとする経験主義の教育においては,子どもが経験することがら(教材)の学習を通して,何(どのような科学的事実・概念・法則など)を認識するのかがはっきりしない。『なすことによって学ぶ』という経験そのものが教科の内容とみなされ,しばしばそれ自体が学習目的とされてしまうからである。教科内容と教材とを区別することは,教科書教材をふたたび絶対視するような傾向が強まりつつある今日,いっそう大切なことといえよう。教科内容というのは,いろいろなものごとに広く適用することの可能な一般的・基本的な知識・技能によって構成されるものである。したがって,一つの内容をさまざまの教材によって教えることが可能であるし,また必要でもある。つめこみ教育の弊害をなくし,子どもの学習負担を軽減するという場合にも,必要なことは,教科内容を精選することであって,教材を削減することではない。教科書を薄くすれば,子どもの負担が減るなどと考えるのは,浅はかな見方である。教材の削減は,内容の習得をますます困難とし,機械的暗記を助長することになりかねない。教科内容を科学の基本にしぼると同時に,それの確実な習得を可能にする適切にして十分な教材を用意するときにのみ,子どもに真の力をつけることができるのである(柴田 2010: iii。下線は引用者による)。

「精選」というと昔の忌まわしい「精選」教科書が想起されることもあり,「積み上げ」とか「一つひとつ構成」と表現するほうが適切だとは思うが(板倉 1988), ここで言わんとしていることについては逆もまた真だろう。つまり,「基礎的・基本的な知識・技能をの習得」とか「確かな学力」などと言って,子どもの学習内容を増加するという場合にも,必要なことは,教科内容を一つひとつ構成していくことであって,単に教材を増やすことではない。教科書を厚くすれば,子どもの学習量が増える「などと考えるのは,浅はかな見方である」。教材の増加は,「内容の習得をますます困難とし,機械的暗記を助長することになりかねない」。むしろ今後の方が「表面を取り繕った機械的暗記」の横行が懸念される。

最近書かれた(わけでもないようだが,とにかく)前書きにしてこのアツさ。この分野にいると教育内容と教材の区別はある意味で当たり前のこと(のはず)だが,一歩外に出るとそれが決して所与のものではないことをあちこちで実感する。闘い続けねばならないのだということを再確認。この巻に収録されているのは主に1981年の『教科教育論』だが,本論でも,30年近く経っても,検討しなければならない問題ばかりだということがよく分かる。指導要領の改訂内容に対する評価がスパッと端的で好き。

ここ数日は,会議・研究実験室の整備・公開講座の準備と,学内業務に追われてます。後期の授業・演習準備もあるし。。。タイトルは,今週の『モーニング』「宇宙兄弟」のキーワード。意味は…自分で調べんしゃい。それぐらい,朝飯前でしょ?