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昨今,意欲を評価しようとする試みがいたるところで散見されるが,ある人の意欲を安定的で固定的なものとしてのみとらえて評定していくような評価作業はまったくナンセンスである。なぜなら,『やる気』の有無を単純に当人だけのせいにするわけにはいかないからである。われわれの動機づけのあり方は,時と場合によって変化するものだし,人と状況との相互作用の中から目指すべき目標が立ち現われてくるという意味で,動機づけは創発的(emergent)な現象(Csikszentmihalyi 1985)なのである(鹿毛 2004: 25-6。下線は引用者)。

理由を読んでちょっと自分のことを考えてみれば,これも当たり前なのだが,少なくとも今の日本の学校教育で採用されている評価法においては当たり前ではない。僕が出会った範囲でも,態度主義の問題についての諸々の資料と議論を通じた後でも,(小学校からそれで育った世代ゆえに)自己の経験に引きずられてか「意欲や態度を評価してほしいし,してあげたい」と考える学生は少なからずいる(彼らも被害者と言えば被害者だが)。

それでも踏み込んで考えてほしいのは,他人に自分の心根を評価してほしいとか,たかだか一つや二つの学期を共有しただけで他人の心根を評価できると考えるなんて,ブラマヨ吉田風に言えば,どうかしてるゼ!ってこと。現場の教師がアナーキーになる必要はないが,最低限その行為のそら恐ろしさに対する自覚ぐらいは欲しい。

  • Csikszentmihalyi, M. (1985). Emergent motivation and the evolution of the self. Advances in Motivation and Achievement4, 93-119. →「チクセントミハイ」ね。

タイトルは,注文していた柴田義松著作集が届いたんだけど,いざ揃ってみるとそれに満足してしまってなかなか手が伸びないなあという話。とりあえず教科教育論から読み始めました。