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を手に取り,久しぶりに興奮して,ほとんど一気に読んだ。自分のブログをそう題しておきながら,「〈教育方法学でつっぱる〉とはこういうことを言うのだよなあ!」と感心したり反省したり。

序章からその姿勢の一端を引用すると:

希望に燃えて入学した学生が,半年もたつと気持ちが緩んでしまう。これは,彼ら自身の問題だろうか。もちろん,大学の授業をなめる学生も悪い。しかし,なめられる大学の授業も情けない。(中略)わが学部長のように,「教員が一方的に話す授業はよくない」と他人事のように言うだけでは何も解決しない。まして,学生に「考えてほしい」と投げ返すのは無責任だ。ここは教育学部なのだ。望ましい授業のあり方を学生に教えるためには,教育学部で行われる授業自体が,望ましい授業の見本でなければならない。授業はこうやるのだと,手本を示すような授業でなければならない(pp. 9-10)。

てな具合。耳を澄ますと,あちらこちらの教育学部生たちの「その通りだ!」の声が聞こえる。そうして以降の章では,筆者が担当してきた「教育原理」の授業過程が紹介されていく。学生たちが考えて間違えるような選択式の問題まで具体化されているので,各回のねらいが分かりやすく,授業の雰囲気も想像しやすい。

私も非常勤で「教育原理」などの授業を担当する際に稚拙ながらも同じ心構えでやってきたつもりだが,問題の立て方だけでなく,その広げ方,「何をこそ考えさせるべきなのか」という点で多くを学ばせてもらった。例えば,問題そのものをここで引用するのは控えるが,次のくだり。

私は,親の負担や,地域住民の税負担を理由に上げた学生の発言について,「経済的な背景を考えたのはいい」とほめる。そのうえで,いまの長野県や山梨県に洋風建築の学校が多いのはなぜかと問いかける。学生からはなかなか出てこないが,長野県や山梨県は,昔から養蚕業が盛んであった。開国して外国との貿易が始まると,生糸を輸出して養蚕地は経済的に潤った。こうした経済的基盤があったから,豪華な校舎が建築できたのだ。また,養蚕業には科学的な知識が必要である。養蚕業の盛んな地方では人々が学校に期待して寄付もしたようだ。他方で,貧しい地方では地租改正,徴兵制,学制に反対して一揆が起こり,「学校焼き討ち事件」も起こった(p. 52)。

私自身がこの辺りのことについて不勉強なのと,私が担当してきた「教育原理」では,発達心理学や学習科学の使えそうな知見の紹介に時間を割いていることもあるが,「長野辺りは教育に熱心で,学校建築のためにお金を出す人もいた」なんて説明だけで済ましちゃイカンのだなと深く反省した。だって,教育に関する議論は常に,印象論に終始したり過度に単純化したりでとかく不毛に終わることが多いだけに,複眼的視点が求められる。それなのに,そのための一環として教育史を学ぶ彼らを「なぜ?」を置き忘れた説明で納得した気にさせては本末転倒ではないか,というわけ。

私の反省はさておき,本書は章末にさりげなく置かれた「問題づくりのメモ」に人間味が溢れていて,後輩としては大いに参考になった。

一回の授業で学生が得る情報の量は少ない。しかし,知識の量を増やすよりも,知識を関連づける方が重要だ。…ただし,学生は私の授業を情報量が少ないとは思っていないようだ。逆に「この授業は私たちに情報の雨を降らせてくれる」と書いた学生がいた。意外だった(p. 80。下線は引用者による)。

授業はすべからくそれが中心となるべきだと思うのだが,知識の網の目が広がる経験を「情報の雨を降らせてくれる」と感じた学生について,「意外だった」と素直に綴れるところが(上述のアツい「マニフェスト」と比しても)なんていうか教育方法学的にクールだなあ。

Twitterでもつぶやいたが,個人的には授業評価だのFDだの,身近なものとして関わらざるを得ない話の点から興味深く読んだ。

授業を研究している立場からいえば,そもそも授業の評価は授業者がするべきものである。授業の目標をたてて内容を構成するのは学校と教師の役割である。授業の目標や内容の適切生は,授業を実施した結果,どれだけ理解されたかで評価するべきなのだ。授業の内容が学生にどれだけ理解されたかを評価するために,試験がある。私は授業の最終回に行う試験で,学生に授業の内容をどう理解したかを書かせている。さらに,私は毎回の授業がどう理解されたかを知るために,解答用紙を毎回提出させている。学生がこの授業の内容と方法をどう受けとめたか,書かれたものを読んで私は授業の内容と方法を少しずつ改善してきた。これこそが授業評価ではないのか。(中略)末端のFD担当者たちも,本当に「学生による授業評価」が必要だとは思っていないのだろう。アンケートのやり方も項目も適当である。アンケートを実施しているという実績だけつくれば,中身はどうでも良いと思っているかのようだ。こんな大学ではまともな研究も教育もできない。学生を鍛える授業をつくり,それによって教師自身を鍛えるしか,もはや大学再生の道はない(p. 146)。

あとがきのこの言葉にもシビれたが,巻末に付されたシリーズ監修者の宇佐美さんの言葉にはさらにブルってしまった。知る人にはお馴染みのことではあるものの,この容赦のなさが何とも痛快だ。

自分は今までどんな授業をしてきたか。自分に対して,こう問わねばならない。そして,この問いに対して,具体的に明確に答えねばならない。つまり,自分の授業の現実を報告するのである。このように,自分の実践に基づくのでなければ,改革の提案をする資格はない。「自分がしてきたこととの関係でのみ,ものを言える。これがおとなの社会のルールなのだ。」(宇佐美寛『大学の授業』東信堂,1999年,160頁)(p. 151, by 宇佐美寛)

教育方法学に特に関心はなく既に教職課程を終えていても,(教科にかかわる単位ではなく)教職にかかわる単位でまともな授業受けた記憶ないな,という人には是非読んでほしい。それは,その科目の性質などではなくて,単にハズレの授業だったのだということがよく分かるハズだ。