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そして,何度か気を失いつつも読了した。まず感じたのは,このタイトルである必要があったのだろうか?ということ。次に考えたのが,本書の想定する読書は誰なのだろうかということ。そして,英語教員志望の学生・院生に薦めるとすれば,気になることが三つほど。書き始めたら長くなってしまったが,ご寛恕願いたい。

  • 卯城祐司ほか(2011).『英語で英語を読む授業』研究社.

まず感じたのは,このタイトルである必要があったのだろうか?ということ。

そもそも本書は「英語のみで授業しろ」と言っているわけではない。例えば「はしがき」でこのタイトルに触れ,「本書は『日本語を使う・使わない』の二律背反ではなく,『英語で授業を行う部分を増やすにはどうしたらいいのか』という観点から書かれています」と断っている(p. iv)。「終章」でも,「英語と日本語の割合」について「『英語の授業は英語で』と高等学校の新学習指導要領で示されてましたが,文法事項の説明などは日本語で行なったほうがスムーズに進みます」と述べることから始めている(p. 183)。だから,読み手がタイトルを必要以上に穿って読まなければいいだけなのかもしれない。

しかしその割には,例えば次のように,

(中略)大切なことは「英語で授業をする」ことではなく,英語使用をとおして生徒の英語力や学習意欲を高めるということです。そのためには,生徒のレベルや実態に応じた英語使用を教師が心がける必要があります。また一度に授業を変革するのではなく,できる活動から段階を踏んで英語量を増やしていけばよいと思います。もちろんそこには教師中心の英語使用から生徒中心の英語使用へという視点を忘れてはいけません。教室英語が豊かで自然なものになれば,生徒は自然と英語を英語で理解し英語で表現するようになるでしょう(p. 21。下線は引用者による)。

と,そこかしこに「英語で授業を展開すれば英語での内容理解が深まる/産出が増える」とか「学習を効果的にすることができる」といった結論があまりにも素朴に置かれているのが気になる。しかもこの場合前半が至極真っ当なだけに,主張全体が「そうだなあ」となってしまいかねない。このような単純な論理が成立するとは思えないが,仮にそうであるとすれば「豊かで自然なもの」がどういうものかをこそ明らかにせねばなるまい。教師の目標言語使用量と学習者の目標言語産出量には相関がないことを示した研究もあるのだが(Macaro 2001)。

*1 Macaro, Ernesto (2001). “Analyzing student teachers’ codeswitching in foreign language classrooms: Theories and decision making.” Modern Language Journal 85(4): 531-548.

第1章を読むと,本書が,「英文を読む前後に日本語を介在させるやり方(「和訳先渡し」を含む)よりも,介在させないやり方(必ずしも「直読直解」とイコールではないが,それも含む)の方が良い」ということを様々な実践的提案を通じて訴えたいのだということが分かる(私としては「英語教育の明日はどっちだ!」のこの記事の主張に大いに頷く。こちらの記事の記述と文献情報も参照されたい)。しかし,実際には介在させないやり方だけが紹介されているわけではない。最も矛盾を感じたのは第5章の「『左から右へ読み進める』ための文構造の処理」という節の「後置修飾の処理について」で,次のように,記号を用いて構造理解を促すという――記号研などを持ち出すまでもなく,用いる記号の種類や分け方に異同はあれど――昔から多くの英語教師に用いられてきたし,今も用いられている手法が紹介されている。ねらいとやり方の是非はさておき,この注釈がストレートに日本語を介在させる効果を認めているではないか。まさか,学習者には一切この注釈を示さないということはあるまい。

The young men and women // looking rather nervous, stood in the waiting room.(やや緊張したように見える若い男女)⇒[若い男女はやや緊張したように見えた]

the mountain top // hidden in thick clouds(厚い雲に覆われた山頂)⇒[その山頂を覆っていたのは厚い雲であった](pp. 102-103。斜体は本文では囲み)

逆に,日本語を介在させないことにこだわるあまりか,「文法項目の導入例」は不自然さが気になる。本書では,中学校については「未来を表すbe going toや現在完了形の導入」が,高校については「仮定法の導入」が例に挙げられている。これは,『英語教育』誌で斎藤兆史さん辺りが「文法を英語でどう教えるってんだ。やれるものならやってみなさいよ」と言ってらしたことに対する一つの回答とも言えるのだが,例えば以下の”be going to”の説明とパターン・プラクティス的活動案を見る限り,斎藤さんに対する有効な反論となっているとは言い難い。

  • (学校行事で訪れたところ・したこと,そして今年の予定について生徒と対話した後で――引用者注)板書例1
  • We went to ○○ mountain last year. We saw beautiful scenery there.
  • We are going to go to Kyoto this year. We are going to see many temples and we are going to learn a lot about history there.
  • 発話例2
  • T: Can you see the difference? In English we use “be going to” when we talk about future. For example, you can say “I ate Chinese food yesterday. So I am going to eat Italian food tonight.” O.K? Now answer my question with these words.
  • (食べ物の絵や写真を見せながら説明する。主語に応じたbe動詞の変化の理解や,以降のインタラクションに困難のあるレベルであれば,キーフレーズとしてI am going to __.を板書する)
  • T: 生徒の名前. What are you going to eat tonight?
  • S: I am going to eat curry tonight.
  • T: How about you? 生徒の名前?
  • S: I am going to eat Takoyaki.
  •  → (下二行のT, Sの発言を指して――引用者)ここで形式について理解しているかどうか確認(pp. 38-39。斜体は本文では囲み)

まず,板書の対比や最初のTの説明で理解できる生徒がどれぐらいいるのか分からないが,日本語で明示的に説明するよりも,「簡単な説明を聞いた後,板書された英文をもとに多くの英文を発話することにより,意味や形式に気づくことができるようにな」るという立場だから,まあこうなるのだろう(p. 42。下線は引用者による)。それ以上に気になるのは,その後のやり取りだ。

未来を表す”be going to”が「未来の出来事を引き起こす要素(原因・意図)が現在すでにあるとき」,つまり,「もうすでにやると決めてあること」や「もうすでに事態が動き出していること」について述べるものである以上,この生徒は夕食を自分で選べる立場にいるか,既に親と「夕食はカレーで」と話を付けていることになる(大西&マクベイなどを参照されたい)。本当にそうなのか?「昨日は中華だったから,今日はイタリアンかな(あのお店に行こうっと)」と大人が言う分には問題ないが,「あなたは?」と聞かれて中学生が「今夜はたこ焼きを食べるつもりだ」というのは現実的な発話だろうか?適切さという事で言えば,”want to” (“would like to”)や”feel like …ing”を用いる場面だろう。

いや,ここは”be going to”という形式に慣れるのが目的だから,という反論があるかもしれない。それなら「英語で効果的に導入」などと言わず,「パターン・プラクティスをやります」と言えばよい。”be going to”の「意味や形式に気づ」かせると言うからには,他の,助動詞や現在進行形,単純現在時制を用いた未来表現との違い,つまり”be going to”がどういう未来を表すかを理解して使い分けられるようにすべきだと考える。いや,この段階では”be going to”だけでもいいんだ,という反論もあるかもしれない。だとしても,”be going to”の意味・用法にかなった説明と活動を用意すべきであり,このままでは以前の投稿で引用した「姿・形は英語だが,心は日本語で」「タテのものをヨコにかえたに過ぎない」という誹りを免れない。

と言っても,上の文法指導の問題点を除けば,私は本書の実践的提案にケチをつけるつもりはない。むしろ逆で,「問題は,教師の使用言語がどちらかかということではなく,与える指示とそれに基づいて行なわれる活動の内容だ」という意味で,本書で紹介されている活動の多くは有用だと感じるので,だからこそタイトルは単に「英語リーディングの実践」とするか,あるいは「思考し,産出する英語リーディングの実践」とした方が誤解がなくて良かったのではないか,と言いたいのだ。

本書の中核は,ボリューム的にも構成的にも,「第5章 内容を英語で理解する活動」(pp. 58-114)と「第6章 内容を理解した後の活動」(pp. 115-159)だと言える。ここで紹介されているのは,めちゃんこ斬新!とか最新の知見ではこうなのだ!というものではない。Reading SkillsとかReading Strategiesなどと呼ばれる,読解に関わる――主として大学向けの教材では既にほとんどが取り入れられている――技能の説明や活動例を中心に,上述の記号づけやポンポン・メソッド的な音読指導,結果としてパターン・プラクティスと代わらない程度のものまでを含めた,要するにリーディングの授業でやれること色々紹介しまっせ!!!の本である。中高のいくつかの現行教科書の文章を例にそれを解説し,指導上のtipsを述べているから,先生にとっても分かりやすく,使えるか否かを判断しやすいと言える。

そこで考えてしまったのは,本書の想定する読書は誰なのだろうかということである。誰に読んでほしいということはハッキリとは書かれていないが,英語教育関係者向けであることは疑いようがない。主には,具体的な実践例も紹介されている中高の英語教員(志望者)であろう。しかし,私の接する限り,本書を自ら進んで手に取りそうな英語教員はほぼ,こういったことは既に知っているか,知っていようがいまいが各々の環境に応じて類似のやれる限りのことはやっているように思う。そして本書に,各々が抱える困難を打破し「やれる限り」をぐいと押し広げたり質的に変容させるほどの革新的内容はない。一方で,読解に関わる技能やそれに習熟するための活動について全く聞いたことがないとか,やれる限りもやれない状況に追い込まれている教員が本書を手に取るとは,また手に取ったとしても授業に活かせるとは考え難い(ただその意味で本書のタイトルは,「指導要領が『授業は英語で行なうことを基本とする』と謳うからビックリしちゃって,藁にもすがりたくて」と慌てふためいた後者の教員に手に取らせることを狙ったタイトルなのかなと邪推したりもした)。仮にそういう状況なら薦めるのはまず天満(1994)で良いのではとも思う。

  • *2 天満美智子(1994)『新しい英文読解法』岩波書店〔岩波ジュニア新書246〕

そうなると,もちろん現職の教員が読んで損をするということはないのだが,最もお薦めするのは英語教員志望の学生・院生ということになる。その際に気になることが3つある。

一つ目は,「実際の現場では,生徒の英語熟達度に合わせて活動を選んだり,これらの活動の組み合わせを変えたりして活用します」(p. 124)といった適切性を盾にした「弁明」が散見されること。学生・院生にしろ上述の困難を抱える教員にしろ,その「英語熟達度」にどう合わせるか,どう組み合わせるのが良いのかこそが知りたいのではないか?もちろん一義的な解などないし,「そんなモノは自分で見つけるしかねえよ」とつき放すやり方もあるだろう。中高大で標準的な英語の授業を経験していれば,インタラクションのモデルがいかに理想化されたものであるかもすぐ分かるはずだ(中にはこんな応答ができるぐらいなら,この活動は不要では?というのもある)。だがそれにしても,語彙の導入についてのフローチャート(第3章)のような,試行錯誤する支援となる記述がもっと欲しかったところだ。加えて,「英語が苦手な生徒たちに対するレッスンの実践例」はあまりにも薄味で記述も少なく,英語教員志望の学生・院生に薦めるとすればだが,彼らが多かれ少なかれ対峙するであろう状況に対していささか不案内であるように思われる。教材や活動を自主編成し自らを鍛えていく道の入口で,「私のクラスでは使えないな」と受け取られては本末転倒だろう。逆に,活動の指示や種々の「教室英語」例をアンチョコのように載せているのも気になる。そういう姿勢でいいのだろうか?

二つ目は,私が何度か気を失った理由だが,失礼ながら活動の流れが割とオーソドックスというか,ヒドい場合退屈に感じられるということ。もちろんオーソドックであるのが悪いということではないが,説明を読んでいてもそれをやる意味や面白さが伝わって来ないということが間々あった。これは,活動自体が退屈というよりは(中には私が生徒だったら付き合うのはシンドそうだと思うものもあるが),紹介の仕方の問題だと思う。というのは,著者の一人の先生が第5章で紹介している授業を,英授研の研究会で映像や資料を通じて拝見したことがあるのだが,授業規律の確立した生徒たち相手に,周到な準備のもと,きびきびとテンポ良くカッチョ良く授業していた。研究会でコメントした大御所の先生は改善点を指摘されていて,確かにそうだなと思う部分もあったが,カリキュラムの構想とねらいも明確であった。だが,本書の説明を読むと,一部を切り取ったせいか,その時感じた良さがほとんど伝わってこない。もちろん,この先生のものに限らず本書で紹介されている全ての活動について,「実際の授業場面については,記述そのままではなく,行間を補って受け取るべし」ということも言える。しかし,全ての読者にそれを求めるのは酷だろう(特に,まだ教えた経験のない学生・院生に薦めるとすれば)。

三つ目は,卯城(2009)ないしは高梨・卯城(2000)ばかりを典拠としていること。本書は卯城(2009)の実践編と位置づけられているから,まあ商売上手ですなということなのだが,BransfordらやKintschらの読解過程研究については既に天満(1989)や津田塾大学言語文化研究所読解研究グループ(編)(1992)でもまとめられているし,それに基づく実践的提案もいくつかある(卯城(2009)でもこうした文献に言及はない)。原論文に当たってそれのみを参照しているのだから言及の義務はないとも言えるが,同様の取り組みが既にあるという意味で,やや不親切な気がする。また,リーディングに限定してはいないが,本書で紹介されているような活動の多くや接続・発展可能なアイデアは,最近のものに限っても,三浦・中嶋・弘山(2002)や三浦・中嶋・池岡(2006),田尻(2009),横溝ほか(2010),北原(2010a; 2010b)など,「枚挙に暇がない」とまでは言えないが,多くの文献に見られる。実践的にも,特に教員志望の学生・院生に対しては,必要なら事典を見よというのではなく,彼らのライブラリーの拡充に資するようなブックガイド(的参考文献の記載)があっても良かったのではないか。

  • *3 卯城裕司編(2009)『英語リーディングの科学:「読めたつもり」の謎を解く』研究社
  • *4 高梨庸雄・卯城裕司編(2000)『英語リーディング事典』研究社
  • *5 天満美智子(1989)『英文読解のストラテジー』大修館書店
  • *6 津田塾大学言語文化研究所読解研究グループ(編)(1992)『学習者中心の英語読解指導』大修館書店
  • *7 三浦孝・中嶋洋一・弘山貞夫(2002)『だから英語は教育なんだ:心を育てる英語授業のアプローチ』研究社
  • *8 三浦孝・中嶋洋一・池岡慎(2006)『ヒューマンな英語授業がしたい!:かかわる、つながるコミュニケーション活動をデザインする』研究社
  • *9 田尻悟郎(2009)『(英語)授業改革論』教育出版
  • *10 横溝紳一郎・柳瀬陽介・大津由紀雄・田尻悟郎(2010)『生徒の心に火をつける:英語教師田尻悟郎の挑戦』教育出版
  • *11 北原延晃(2010)『英語授業の「幹」をつくる本』(上下巻)ベネッセコーポレーション