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移動中や文献・論文の合間に読むものなど,趣味の読書は,自然と専門と関係のない方面に手が伸びる。高校で物理を履修しなかったが故のルサンチマンなのか,いわゆる物化生地,自然科学関係の(人が書いた)本が好きだ。専門じゃないから理解の程度にかかわらず気楽に読めるというのが大きいのだろう。で,Twitterで流れてた推薦文句が気になって手にしたのが,『人生一般ニ相対論』。

読みながら声を出して笑ったのは久々だ。しかも随所で。悪ノリしてるな~と嬉しくなる時の井上ひさしの文章のようでもあるし,森毅がエッセイなどで行間に醸し出すエスプリに似たものも感じる。あとがきで著者自身が述べているように,この大半を『UP』誌で連載し,東京大学出版会から出したというのが良い。

カラオケや目の前の修学旅行生から宇宙論まで,180度どころか別の次元への跳躍を見せるアクロバティックさや,娘に虐げられ疎まれてていく様を愛情たっぷりに描く辺りで抱腹してたら,あちこちにハッと考えさせられる言葉も散りばめられていて,あなどれない。例えば,

世界観醸成の最初の原点は自分自身以外にはあり得ない。この原点をどこまで一般化できるかが,到達した世界観の普遍性を決定する(p. 5)。

しかし分別のない娘は「電流はどうしてそんなことを知っているのか,電流は天才なのか」とさらに詰め寄ってくる(p. 68)。

物理と音楽に共通しているのは,何か別のものの役に立つということで存在価値を正当化するのではなく,それ自身で自己完結して意味を持つ,すなわち「役に立たない」という性質である(p. 138)。

といった具合。ぜひ手に取って,前後をお読みいただきたい。「オフリミット」という章などは,コピーして英語教育関係者に配りたいぐらいだ。私は”Just survive.”と答えてニヤニヤすることが多いかもしれない。表題となっている章の「言語の相対性」という一節もうなずく人は多いだろう。

さらに,もったいないので少しずつ笑いつつ味わいつつ読んでいたのだが,「高校物理の教科書」に至ってはまったく笑うこともできず,考えなくていい読書だと思って働いていた脳が延髄切りをくらってしまった*1。

 以前,近所の主婦の方から,「物理で覚えていることと言えば,滑車をたくさんつないで下から引っ張ったり,斜面に箱をおいて落としたりとかいった問題だけですね」と言われたことがある。これは極めて印象的である。物理で飯を食っている人々にとって,それらは単に現象の理想化の一例にすぎず,より現実的な状況を解析するための通過儀礼でしかない。それらが物理という教科の代名詞的な役割をしているなどとは思いもよらない。大多数の(仕方なく物理を学ばされる)中高校生に対して,物理の目的やゴールといったことを何一つ伝えることのないまま,断片的な知識を教え込むことだけが教育であるかのように思い込んできた事実が浮かび上がる。

極論すれば「物理(より一般に科学)は面白い」ということさえ伝えることができれば,もっと学びたいという意欲は自然に後からついてくるのではないだろうか。物理を学ぶゴールが,滑車の上げ下げ,斜面上の物体の運動,斜め投射運動に尽きると思われてしまっては,一生やる気がしないのも無理はない。

我々関係者が集まると「物理を履修する高校生が減少の一途であるのはゆゆしき問題ですなあ。日本の将来は暗いですよ」という亡国論にまで話が及ぶことが多いが,これまた大局的な視野を欠いている。もちろん業界人として物理履修者が増えることは喜ばしいのであるが,そもそも根底にあるのは理科離れ・科学離れであろう。科学が進歩するにつれて最先端の知識までの距離が遠ざかる結果として,身の回りに満ち溢れている技術の基本的な仕組みについてすら「どっちみち難しくてワカンネー」「原理はわからなくても使い方はわかるから別に困らないシー」ときうブラックボックス的感覚を当然とする風潮が浸透しているのだ(pp. 153-154)。

「批判より提案を」として著者が出している代案は本書を読んでもらうとして,上の指摘は全くもって「物理」に限った話ではないように思われる。ちなみに三段落目については,60年代に仮説実験授業を提唱し始めた時から,板倉聖宣が同様の指摘をしていたという事実をあわせて提示しておきたい(板倉ほか(1989)に所収*2)。

*1 本書をまねて注をつければ,ただの職業病もどきという可能性も否めない。

*2 板倉 聖宣・上廻 昭・庄司 和晃(1989)『仮説実験授業の誕生:1963-64論文集』仮説社,pp. 159-188.

安斎 育郎・板倉 聖宣・滝川 洋二・山崎 孝(1996)『理科離れの真相』朝日新聞社.