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卒論を添削していて気づいたこと、つらつら考えたことを書き出した前記事の続き。書き言葉に見られる諸問題の話、あるいは「やり取り」の拡張。

やり取りが断片(fragments)によって行われることの影響、そしてフォーマリティの問題は、話し言葉だけでなく書き言葉にも関わる。

例えば英語教師の多くは、because節を単独で文として用いる学習者のエッセイに何度も遭遇している。”If I had enough money, I would build my own theater. Because there’s no big screen on my way to work.“といった具合に。そのことを「誤り」だと指摘する文法解説はすぐ見つかるが、エッセイでは不適切でも、下のように、やり取りであればbecause節単独でも全く問題がない。

H: What would you do if you had enough money?

W: Well, I would build my own theater.

H: Build your own theater. Why?

W: Because there’s no big screen on my way to work. I wanna watch a movie after work.

中学校の教科書ではダイアローグ(Why/Becauseの連鎖)を通じて同じように”because”が導入されているので、そのことをこの「誤り」を引き起こす主犯と考える人もいる。確かに、現行の教科書は全般にフォーマリティの区別が弱く、その違いを理解しやすい取り上げ方をしているとは言えないが、真の問題は、because節が単独の節として学習者に提示されていることにあるのではなく、主節の省略が認められる文脈と認められない文脈が区別されないままであることにあると考えるべきだろう。卒論を添削していると、”Now I’m into watching TV dramas in English. For example, The Mentalist, White Collar, Lie to Me.”といったように、断片で”for example”を用いる学生が後を絶たない(卒論でこんな文章は出てこないが)。これも同様のケースだと考えられる。彼女たちが英語で行っている「やり取り」の世界で通じているものが論文のディスコースに持ち込まれているだけのことだ(粘り強く優しく厳しく添削したり、コロンやセミコロンの使い方をダッシュでカンマしたりするのが指導教員の仕事)。

そもそも談話上の機能として、理由を述べるのに必ずしも”because”を用いる必要はないし、例をあげるのに”for example”が必須ということもないのだ。実際、上の例で”because”を言わなかったとしても伝達上の問題はそれほど生じない。発言全体で自分の映画館を建てたい理由を述べていると伝わるからである。むしろ文脈によっては”because”がないほうが自然な場合すらある。教師が”In a (full) sentence”精神で”It is because …”という形を徹底しても、そうした状況・文脈に応じて適切に談話を構成していく力にはつながらないし、それによって学習者が理由を述べる時には”It is because …”しか用いないようになるとすれば逆に問題だろう。少なくとも私が接する大学生に対する指導としては、「主節を伴わない従属副詞節を単独で用いるのは誤りです!」と何度も指摘するよりは、「お金があったら自分専用の映画館を立てたい。通勤途中に映画館がないので。」という文章がレポート・論文のそれとして適切かを考えてもらったほうが早いように思う。

さらに言えば、こうした問題は、「話し言葉」と「書き言葉」を区別するだけではもはや解決しない。テキストメッセージのやり取りが盛んになるにつれて、その辺りでの両者の境界は以前ほどハッキリしたものではなくなっており、上の例はチャットであれば(スロッピーという印象もなく)書き言葉として十分に成立するからである。逆に話し言葉でも、前記事で述べた通り、断片で構成されないスピーチであれば基本的に主節の省略は認められないだろう。もちろんBIO(略歴)のような形式であれば、前記事の自己紹介も

Yoichi WATARI, born and raised in Sapporo, is a faithful viewer of TV dramas in English. His primary concern is to build his own theater someday in the future.

といった感じになるだろうから(構成の弱さに対するツッコミも同じように成り立つ)、モードによる視点の違いやそれによる言語表現の選択の違いは確実に存在する。しかしわれわれが「話し言葉と書き言葉が越境・交錯した書記テクストを、日々やり取りしている」(奥泉, 2017, p. 87)という事実認識は英語教師も持っておく必要がある。昨年、『英語教育』10月増刊号で

を紹介した際、

鬼教官の指導で「とても疲れた」と日記に書こう。辞書を引いて“weary”を用いた生徒に,それがどのような堅さ・柔らかさの表現となっていると伝えればよいか。「正しい文」で書くことを求める時,生徒がSNSで目にした “So tired.”は「間違った英語」なのだろうか。受験指導と称してその表現を何度も持ち出しているのに,“as is often with …”や“not only … but also …”のフォーマリティと言われても全くピンと来ないなら,本書をぜひ一読するとよい(亘理, 2017, p. 79)。

と書いたのは、自らに埋め込まれた規範的な「正しさ」を振りかざす前に、以上述べてきたスタイルやフォーマリティの側面に意識を向けられる英語教師が増えて欲しいと考えた故である*1。自己紹介で敢えて”be into”(ハマってる)という表現を使っているのもそこに目を向けるためだったりする*2。

ここまでお読みいただければ察しはついたかもしれないが、この記事で私は「やり取り」は「話すこと」だけに置くカテゴリーで良いんですか?と問おうとしている。Writingのタイプを前記事の分類(ダイアローグかモノローグか×即興か準備ありか)に当てはめると、下図のように整理することができる(「メール」は「リプライの応酬」と表現したほうが正確かもしれないが)。

授業の中でwritten interaction(の指導)が中心となるとは流石に思わないが、少なくとも「やり取り」が「話すこと」のみに関係するものという考え方を英語教師はしない方が良い。むしろspeaking/writingを合わせて(つまり前記事の図と重ね合わせて)上図のような分類を考えることで、授業での言語活動をより立体的に捉えられるようになり、前記事の図の青字「?」の役割もよりハッキリと浮かび上がってくるのではないだろうか。実際、生徒たちがペアでスキットを作成して、それを規定演技として練習とし、そこからのアレンジやアドリブを即興の自由演技とする活動は多くの教室で実践されているだろう。何かのお題について、まずメモを用意して、それを内容・構成のメモとして発表に望む(上図の③。ただしwriting → speaking)というのも帯活動などでやられているだろうし、思いつくことをマインドマップとして書き出しておけば、writingであれspeakingであれ、やり取りの際の引き出しとして重宝するかもしれない(上図の④)。普段、「いきなり原稿を準備してから話そうとするのではなく、まず話してみてから書き出してもらって、それを元に仕上げていきましょう」とアドバイスすることが多いのも、③の足場づくりと捉えることができる(話してみるのはやり取りの場合もあり得るが、speaking → writing (→ speaking))。

以上の考察のきっかけになったのは、つまり元々のこの記事の本題は、実は卒論に”however”の誤用が多いことだった。一人や二人ではなく、複数の学生が、

Now I’m into watching movies in English, however, there’s no big screen on my way to work.

というような文をあちこちで書いていたのだ。”However hard it may be, you have to write it up.”のような「どんなに…であっても」の意味でなければ”however”に接続詞的な機能はないので、さすがにこれは誤用として指摘せざるを得ない。当然、彼女たちは「しかし(ながら)」の意味で用いているのだ。やり取りの断片をエッセイに持ち込んでしまうのとは違うレベルの話である。”however”ほどの頻度ではないが、”thus”についても同様に、”I’m from Sapporo, thus, I’m good at skiing.”というような誤用が複数見られた(例文とhowever/thusのフォーマリティの不一致は無視してください)。

この「誤り」の原因は複数考えられるが、少なくとも単一の原因ではなく、以下に挙げるような複合的な認識・判断が重なり合った結果だと思われる。

  • “However hard it may be, you have to write it up.”ような文例で二つの節が繋がれていた印象がうっすらあった
  • 「文頭ではand, but, soなどを用いない」ということをいくつかの授業で聞いた → 文頭だけでなく文中でも使うのを避けた
  • Howeverとbut、thusとandは相互に入れ替え可能で、論文では前者のカタいほうを使うべきだと考えた → butを使うべきところをhoweverに置換
  • 「Howeverは文頭に置くよりも、文中に置くほうが好まれる」というような話があったような気がする → 文中に置いてもOKだという判断が強化された
  • 全体に締め切りまでに書き上げなければならず切羽詰まっていた → 見直しがおろそかになった

私が最も興味を持ったのは、なぜ彼女たちが上記のような文の違和感をすり抜けられたのかということだった。期間や行き先は色々なれど、ほとんどが留学経験を持ち、本人たちの自覚はともかく、相対的に見て英語は得意なほうの面々だからだ。名詞句の定不定や時制のニュアンス、コロケーションはあれこれ指摘されるとしても、他の部分ではせいぜい関係代名詞節の前置詞忘れをうっかりやらかすぐらいのものである。私のように文法から入って頭からつま先まで文法で固めてしまった者は、上記のような文を見ると「補文標識はどこなのさ?Howeverは魔法の糊か何かなのかマージまんじ!」と違和感が溢れて止まらない。もっと辞書的意味の段階でも、”however”=「しかしながら」なら、「…だが」じゃないんだから繋がらないじゃん!と思うわけである。大学4年生の時の私よりもはるかに英語経験豊かで技能的にも優れる彼女たちがそういう違和感を持たなかったとすれば、それは、howeverやthusという語の用法理解の問題を超えて不思議な現象であるように思われた。

そのことについてつらつら考えて思い至ったのが、話し言葉のやり取りと、preparedな書き言葉のモノローグとの違いだ。つまり、彼女たちは英語がそこそこ話せるし、これまで英語話者と会話する経験をそこそこ積み重ねてきた。彼女たちが耳にし口にする話し言葉では(言語学的な意味での)節の区切りは必ずしも明瞭ではなく、上の例と”Now I’m into watching movies in English. However, there’s no big screen on my way to work.”の違いはわからない。さらに、そのやり取りには”however”や”thus”といった語句は当然ほとんど登場せず、”but”や”and”が用いられていたに違いない。”A, but B.”という認識であれ、”A. But B.”という認識であれ、会話に支障はないのだ。言うなれば話し言葉のやり取りのディスコースがドミナントになった英文法の体系が彼女たちの中にあり、それが比較的不慣れなアカデミックな書き言葉モノローグに適用され、上に示した要因が重なった結果、howeverを挿入句のように挟んで2文を繋いだ文が許容されたのではないか。もちろんこれは私の推測の域を出ない考察なのだが、コミュニケーション(活動)がより重視されるようになった世代に(書き言葉のディスコースで文法を固めることに重きを置いてきた世代にはない)そういう傾向がもしあるとすれば興味深いことで、なおさら「やり取り」の特徴を「スピーチ」や「エッセイ」との区別において捉えられるような授業が求められると言えよう。

*1 なぜ「鬼教官」が登場するかと言えば、直前で客室乗務員タスクを紹介したからであり、『スチュワーデス物語』へのオマージュである(80年生まれでこういうことができる辺りを褒めてほしい)。文字数的にカット候補としていた箇所なので、残してくれた編集Kさんに感謝したい。風間杜夫さんは最近『先に生まれただけの僕』で教…頭として良い味を出していた。

*2 昨年、ALT向けの講習で、敢えて日本語で同様の自己紹介をしてもらった際、複数のALTに「ハマってる」の意味を訊かれたので、”I’m into …”と説明するとすぐに得心していた。「Oh, 『メッチャ興味ガアリマス』ねー」と言った人もいた。日本語教育事情には詳しくないが、フォーマリティに関して似たような課題があるのかもしれない。「めっちゃ」を使って構わない間柄であれば「めっちゃハマってる」で問題がなく、「興味があります」が適切な状況であれば副詞は「とても」や「非常に」が適切ではなかろうか。

参考文献

  • 奥泉 香 (2017).「文字や表記システムと社会的実践としてかかわる」佐藤 慎司・佐伯 胖 (編)『かかわることば: 参加し対話する教育・研究へのいざない』(pp. 85–113)東京大学出版会.
  • 亘理 陽一 (2017).「英語教育図書: 今年のベスト3〈応用言語学〉」『英語教育』2017年10月増刊号. pp. 78–79.