[雑感055] On speaking terms

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卒論を添削していて気づいたこと、つらつら考えたことを書き出したら長くなってしまったので、記事を分けることにした。まずは、やり取り(インタラクション)とスピーチの違いの話から。

ここのところ担当した研修・講演で、学校種を問わず、言語活動における「やり取り」と「スピーチ」の目的・性格を考えて行いましょう、ということを繰り返し説いてきた。ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)ではもともと区別されていたし(ただしSpoken InteractionとSpoken Productionとして)、活動の内容によって相手のある会話とモノローグでの発表のそれぞれに合わせたサポートをする教師も以前からいた。それにもかかわらずこの点を強調するのは、次期学習指導要領で「話すこと[やり取り]」と「話すこと[発表]」とが分けられたことで、かえって両者を機械的に区別するだけの活動が蔓延するのではないかと危惧しているからである。

現に中学校の指導要領解説を見ても、「やり取り」が「話し手と聞き手の役割を交互に繰り返す双方向でのコミュニケーションの機会が多いことを踏まえ」て設定されたもので、「発表」が「聞き手に対して一方向で話して伝えることができるようにする」ことを目指すものだと書かれているのみで(pp. 20, 23)、それぞれが英語において一体どういうあらわれ方をするものなのか、日本語とどういう点で同じで、どういう点で異なるのかは分からない。むしろ「やり取り」に関して「即興で」ということが「重要な条件」として強調されており、やり取り=即興(impromptu)、発表=準備あり(prepared)という固定的な捉え方に陥ることが懸念される。それが典型的なやり取り・発表を構成するとしても、授業では、下図に示すように、そこに至る筋道での「preparedなダイアローグによる活動」や「impromptuなモノローグによる活動」の探究が重要で、むしろそれを通じてそれぞれがどういう性格を持ち、何が求められているかが見えてくるのではないかというのを11月の某研修で奥住先生と確認したところだ。

例えば、

My name is Yoichi Watari. I’m from Sapporo. Now I’m into watching TV dramas in English. If I had enough money, I would build my own theater.

というような自己紹介をする時、それが、何らかの集まりで初対面の人たちに対するスピーチだとすれば、好きなドラマのジャンルや作品名を具体的に挙げた方がわかりやすいだろうし、札幌出身であることと海外ドラマにハマっていることのつながり(札幌にいた時は通学途中に映画館があっていつでも映画が観れたが、今はそうではないので…など)も欲しい。つまりスピーチでは、何を、どのくらい精密に語るか、そしてその情報をどう配列するかが重要になるわけだ。授業の活動を通じてスピーチを仕上げて行くとすれば、そういうモデルを示したりフィードバックをしたりすることになる。さらに言えば、相手に合わせたopeningとclosingもあった方がいいし、「自分の映画館を建てる」という話が、その場にいる聴衆との関係でどういう意味を持つのか、オチも明確にしたいところ。

授業でも、1分間しゃべれて偉いねーパチパチパチで終わるのではなく(途中段階ではそういう目標の置き方もあってもいいかもしれないが)、そのスピーチの目的に沿って内容と形式とその論理を追究すべきだし、教師自身がそういうスピーチの像を描けていなければ、いつまでもやらせっ放しの「放談」、あるいはそれ以前の単文の羅列の域を出ないかもしれない。スピーチを鍛える過程で上の太字の部分のような型をガイドとして提供することはあり得るし、実際あった方がいいと思うが、その型自体の妥当性やフィードバックの適切さは理想とするスピーチ像に照らして厳しく吟味されるべきだ。

一方、即興のやり取りでの自己紹介であれば、相手の反応によって会話の流れは当然変わる。「札幌出身なんです」と言ったところで、「へえ、じゃあスキーは得意?」「主食はジンギスカン?」「実家で熊飼ってるの?」などと訊かれるかもしれないのだから、上のメッセージ全てをそのまま最初から想定することはできない。というよりも、会話とは共同構築作業であり、この場合の目的が「自分のことを紹介し合ってお互いのことをより良く知ること」にあったとすれば、そこに向かってやり取りを進めていく責任、交わされたやり取りが満足の行くものであったかどうかに対する責任は両者(3人以上であればそこに参加している全ての人)にある。「札幌出身なんです」に対して、いきなり「へー、最近すすきのは賑わってますか?」などと訊くのは(それによって変な空気になってやり取りがチグハグに終わったとしても、それは)対話者のほうが悪い。だから、両者の関係性がある程度確立していて、対話者が引き出し上手であれば、やり取りはスピーチよりもずっとラクに感じられる。引き出し上手の英語話者と会話すると自分の実力以上に話せた感があり、その逆も然りなのは、多くの人が経験しているところだろう。教室ではお互いの関係性に甘えてグズグズの展開でも一見するとやり取りが成り立っているように見えてしまうが、スピーチと同様「通じりゃいいじゃん」、「長く続いたから偉い」の段階を超えて、会話の目的に照らしてそれぞれの寄与や言語使用を省みることが望まれる。

即興でのやり取りが難しいと感じるのは、あるいは授業者の意図通りに盛り上がらないことが多いのは、学習者にこの引き出しの手札が乏しいからだ。ガイドがあれば「海外ドラマにハマってます」と言うこと自体は中学校1年生でも可能だが、それに対して「どういうジャンルが好き?」、「オススメは?」などと訊くこと、さらにそれに答えることは簡単ではない(中1で現実にありそうな例に置き換えれば「海外サッカーにハマってます」→「どのチーム・選手が好き?」→「レアル・マドリード/C. ロナウド」→「他と比べてどこがスゴい?」→…など)。「引き出しの手札」には、表現のレパートリーだけでなく、知識や経験も含まれる。「お金があれば自分の映画館を建てる」と言われて、「へえ」、「いいね」で終わらずに、「そのくらい映画好きなんですね。最近、何観ました?」と展開したり、「ああ分かります。ニューシネマ・パラダイスみたいな感じの味のある映画館で、好きな作品だけ流したりねー、夢だねー」などとコメントしたりできるのは、そこそこの会話の手練れである*1。活動後のフィードバックが重要になるのはスピーチと同様だが、「即興」にこだわるからか、授業でのやり取りの活動はやらせっ放しになっているケースがスピーチ以上に多いように思う。それは学習者自身の手札とペア・グループの組み合わせの妙(それも極めて重要な要素ではあるけれど)に依存しているだけで、授業を通じてやり取りの力が鍛えられているかは疑わしい。順を追ってやり取りを紡ぐ足場を作れているか、よくよく検討したい。

やり取りを生み出す糸口となるのは「質問」である。もちろん会話の当意即妙性は大いに失われるけれども、上の4つの文を引き出す質問ができれば最低でも8ターンのやり取りが成立するし、良いインタビュアーよろしく、それぞれの情報の間を埋める質問をどんどん繰り出せれば、両者が満足する展開となるかどうかはともかく、望むだけやり取りを続けることができるだろう。もちろんそれを聞き取って応じる力が相手に求められるわけではあるが、その都度、相手の理解を確認し、繰り返したり言い直したり説明を足したりしやすいのも「やり取り」の特徴である(そういうストラテジーは早めに導入してあげたほうがいい)。授業で段階的にその経験を深めて行こうとするとき、こうしたインタビュー活動を意図的に入れたり、その手前の段階として相手のプロフィールを尋ねる疑問文をあらかじめ用意してそれに答える形で会話の型を経験したり、ということは大いにあり得る(上図の①)。ついでに言えば、この作業はスピーチの内容・構成を練る際にも有効で(上図の②)、自分の中でこのインタビュー活動(もしくはセルフつっこみ)ができるようになり、その精度が高まって行けば理想的だと言える。

あるいは、下に示すように、話し手の自己紹介から始めて、理解していることを示したり先を促す合図として、相づち表現を挟んだり相手の言ったメッセージをそのまま繰り返したりする活動も考えられる(Cf. 三浦・中嶋・池岡, 2006)。こういう活動を重ねて余裕が出てきたら、前後にその場でコメントを足して行けばいい。例えば、先日この活動を紹介した際、私の近くにいたALTが最初の応答で即座に”What is the kanji for your name?”と足してくれていた。こういうモデルがいる教室といない教室では会話の広がりは随分違うだろう。

W: My name is Yoichi Watari.

H: OK. Your name is Yoichi.

W:  I’m from Sapporo.

H: Really? You’re from Sapporo.

W: Now I’m into watching TV dramas in English.

H: I see. Now you’re into watching TV dramas in English.

W: If I had enough money, I would build my own theater.

H: Great. If you had enough money, you would build your own theater.

この活動は、聞き手の側に (a)相手の言ったことを正確に聞き取る力と(b)(自他を示す)人称代名詞を適切に置き換える言語操作が要求され、話し手の側から見れば (c)自分が言ったことがどの程度正確に伝わるかがすぐ確認でき、(d)聞いてもらえたという実感を得やすいというメリットがある。ここからパターンを変えて活動を展開することも容易で、大学での初回の授業でもまあまあ盛り上がる。ただ、ここで注意したいのは、「言語活動における『やり取り』と『スピーチ』の目的・性格を考えて行いましょう」という話で何より伝えようとしたことでもあるが、やり取りは必ずしもこのような整った文の形である必要はないということだ。上述の通り会話は共同で構築されるもので、それは必ずしも整った文ではなく、断片(fragments)によって展開されていくところに特徴がある(母語での会話をちょっと思い出せばすぐわかるだろう。SNSでは断片はおろか意味不明なスタンプの連鎖でも会話は展開可能なのだ)。だからこうした活動は、上のようなやり取りはむしろ特殊で、(a)–(d)のねらいと合致する限りにおいて有効なのだということを踏まえた上で行う必要がある。疑問文に答える活動の場合も回答は必ずしも文である必要はない。上の例で言えば、どちらもメッセージとして最低限必要なのは下線部のみなのだ。

なぜこのことを強調するかと言うと、生徒が断片で回答した際に、”In a (full) sentence.”と整った文で言い直すことを求める先生が少なくないからだ。その発言自体が(主述が明示されているという意味での)文ではないので、先生に対して”You, too.”と返すことも可能だが、こっぴどく怒られること必死なので良い子の諸君はガマンするとしよう。少なくとも先生がたには、やり取りでは断片で応答することは不自然でもなんでもないことを理解し、文での発言によって自分が学習者に何を求めているのか(その代わりにコミュニケーション上の何が犠牲にされているか)を自覚した上でそれを要求して欲しい。おそらくは(特に初期の)「文」の骨格を身につけるべき段階で、主語と述語が整った文の意識づけのためにそれを徹底するのだろうが、”Where are you from?”と訊かれて”Sapporo”と答えるのは、文を作るのをサボっているからではなく、少なからずやり取りとしてそれが自然だと感じるからだ。そのあらわれ方は英語と日本語とで必ずしも同一ではないので、「それでも通じるけど、”From Sapporo.”のほうがいいかな」などと最低限必要なメッセージのかたまりを吟味する過程はあってもいい。しかし、状況的・言語的文脈から復元可能な内容を常に整った文で言うことは、コミュニケーション上、必要でも「正しい」振る舞いでもなく、文法の知識としても、整った文で表現する必要があったとすればどういう形になるかを(補おうとすれば)補えることが重要なのだ。そこには、”Do you like skiing?”に対して”Yes, I do.”と答えることはできても”*Yes, I like.”とか”*Yes, like skiing”と答えることはできないといった文法的に義務的な省略・代用の側面も関わるし、”Yes.”だけで応答することも(日本人学習者にはあまり見られないが)”I do.”と受けることもできるという任意の省略・代用の側面もある。

後者は、状況・文脈に応じた表現選択の問題、あるいはフォーマリティ(改まり)やポライトネスといった問題にも関連している。勉強して覚えた”Would you like coffee or tea?”をついに耳にするチャンスが来たぞと勇んで国際線に乗り込んでみれば、(全員に飲み物をサービスしていて自明なので)”Coffee or tea?”としか訊かれなかったというような経験は多くの英語教師にもあるだろう。それに対して”I would like a cup of coffee.”と言う必要はないにせよ、単に”Coffee.”と言うか”Coffee, please.”と言うかの選択は、その言い方と同様に、伝わり方にある程度影響を与える(忙しいCAがその一言にいちいち反応するとは思わないが)。それは日本語で「コーヒーを一杯いただければありがたいのですが」と言うと逆に畏まりすぎだが、「コーヒーをください」と言うか「コーヒーで」と言うか「コーヒー」と言うかなどの選択があり得るのと同じことだ(場所が場所なら「アリアリちょうだい」でも通じる)。これが留学先のホストファミリーや招待された家の人のお誘いだったらどうだろう。”In a (full) sentence.”を常に要求すること、もっと言えば偏った単文主義によって、そういう場面・状況や表現効果の吟味が蔑ろにされるとすれば、やり取りの指導にとってかえってマイナスであろう。

(続く)

*1 尤も、そうした応答には相手への関心も重要で、それ(知らなかった相手の新たな一面など)を引き出すのに失敗している場合もやり取りの活動はうまく行かないだろう。Show and Tellなどでのスピーチ後の聴衆のQ&Aについても同じことが言える。

参考文献

三浦孝・中嶋洋一・池岡慎 (2006).『ヒューマンな英語授業がしたい!』研究社.

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