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亘理 (2019)にも書いたことだが、最近呼ばれる研修等では「むやみに”Big Voice,” “Eye Contact,” “Gestures”と教室の標語やフィードバックで求めるのやめませんか」と憚らずに言っている。それに関係する体験の話。

エンゲストローム(1999)は学習活動の分析において、レオンチェフによる活動の概念を引いて、活動・行為・操作を区別している(特にはpp. 51–73。端的な整理として松本, 2019, pp. 102−103も参照)。活動は行為によって組み立てられ、行為は操作によって具体的に実現される。その際、操作は(主体の意識の関与しない)条件によって、行為は(個人的主体の)目標によって、活動は(集団的主体の)動機によって制御される(エンゲストローム, 1999, pp. 168–187)。

外国語教育で具体例を挙げれば、「疑問の表現を発する」という操作の際には用いる語句や語順、イントネーション等の条件が課され、「質問をする」という行為にはそれに対する回答を得るという目標があり、「インタビュー」という活動は質問の回答を得て、伝え聞いたその人の人となりを自分なりにまとめて誰かに知らしめるといった動機によって行われる(相手も相応の動機を持って臨んでいる)、といった具合(こうして重ね合わせてみると、三浦・池岡・中嶋, 2006, pp. 43–45の「コミュニケーション活動における『意味』の4レベル」との親和性も確認できる)。インタビュー活動は質問行為によって構成され、質問は疑問の表現の操作によって具体化されるわけだ。

このように考えた時、「コミュニケーション活動」と称しておきながら、ここで言う「活動」の意味ではなく、操作-行為の次元で閉じた行動(の繰り返し)を学習者に求め、それに終始しがちな実態が学校教育の一環としての外国語教育にはある。授業中に、操作-行為の次元で閉じた作業があること自体を批判したいわけではない。練習としてそれが必要な場面やタイミングも当然あるだろう。問題は、それが下線部のような活動とどのような関係のもとで行われているかだ。私が悪質だと思うのは、そのような、活動との接続を欠く、あるいはその意識すらない行為を「コミュニケーション(活動)」と呼ぶコミュニケーション観であり、そこに通り一遍の「コミュニケーション・マナー」の発揮を求める暴力性である。

昔から言っているように、パターン・プラクティスなら堂々とパターン・プラクティスと言えばいいのだ。先日の某研修でも「単純反復・機械的対話で単に何度も触れることが『慣れ親しみ」ではない」という話をしたのだが、幼い甥っ子が盆暮れのみ会えるおじさんに慣れ親しむ時、トミカのパトカーを操作して駐車場に停める行為を繰り返し見せつければ、それだけで自動的に慣れ親しみが完了するわけでは当然ないだろう。駐車場の人役のおじさんに見守られたり反応したりしてもらいながら、一緒に遊んだ・楽しかった(甘えればミニカー買ってもらえそう)というその感覚と時間によって慣れ親しむのではないのか。「慣れ親しむ」という言葉の私の理解は少なくともそういうものである。平たく言えば、意味のある経験を通じて「わがこと」として関わることなしに、慣れも親しみもすることはないだろう。

過日観察した小学校の授業は、1〜31の数字を復習し、月の名前と日付を確認して、お互いの誕生日を訊き合うというものであった。基数と序数の音の違いに敏感に反応して数字を表す語の操作は既にお手のもの。単に数字を発音するだけの行為はそれほど子どもたちの気を惹かない。次いで、特定の日付を聞き取ってそれが書かれたカードを取るカルタは結構盛り上がる。行為として、グループで一番多くのカードを取るという目標が明確だからだ。しかし、外国語科としてこれは何の「活動」なのだろう?この行為を個別に見れば外国語による他者との対話を期待するのは難しいとしても(どっちが取ったか揉めた時に英語で言い合いでもしてくれればいいのだが!)、いったいどういう動機に支えられた活動を構成する行為で、対象世界との対話という面でそれを通じて何が理解され深められるのか。

このつっこみは、Let’s TryWe Can!のほとんど全ての単元とコーナーに突きつけることができ、外国語科にエンゲストローム(1999)の言うレベルの学習活動を期待する時、ほとんど息の根を止めるものだと言える。逆に言えば、そのレベルを期待せず、ひたすら操作-行為のみに終始する外国語教育を「教科」として扱い得る教科性とはどこにあるのか(おそらく英語教育界隈の人の多くには「教科(の固有)性」と言ってもピンとも来ないのだが)。英語の授業はそうした「訓練」で十分だという人たちは、子どもの成長を、学校教育を、言語教育を、授業を、教職をなめすぎだと個人的には思うが、教科観については別の機会に論じることにする。

この授業で、カルタの後に私にとって象徴的な出来事があった。(日付を言う先生の声が聞こえないとかお手つきの処理をどうするのかといった)カルタを巡る混乱で時間はおしたものの、授業者にとってのメインの表現活動(エンゲストロームの意味ではない。念の為)は、そこまでで手に入れ習熟した表現を用いて、お互いの誕生日を訊き合うというものであった。教師がかけ足で手順を説明し、片方の列の児童が順に座席を移動してペアを替えながら、お互いの誕生日を聞いてはワークシートに記入していく。ここで複数の児童が、抑揚もなく大声で「うぇんいずゆあばーすで〜!!!」と叫ぶだけの姿を目撃したのである。もうそれは驚くほど精密に、機械的に、相手の反応に関係なく、ドラえもんが道具を出す時より抑揚をなくして大声にしただけの発声が繰り返された。

この教室に”Big Voice,” “Eye Contact,” “Gestures”の3点セットが貼られていたわけではないが、私はこの姿を見て「嗚呼、これは児童たちのある意味での反乱だな」と思った。操作と行為のレベルだけで羊頭狗肉の「コミュニケーション」を無批判に求め続けた結果、少なくない児童たちが感じている違和感が内側から発露したものとしてのビッグボイスの乱。一方、彼らが日本語でやり取りしている時に、ふざけ合ったりじゃれあったりすることは当然あっても、自分の口から発せられる言葉に対してそういう扱いは一切していなかった。つまり授業での英語による「コミュニケーション活動」は、L1とは違い、彼らにとって(緊張と挑戦と帰結を伴う)他者とのインタラクションとして捉えられているとは言いがたい状態にあるということだ。そしてそれはコミュニケーションにおけるなんの動機にも支えられていないため、ここで論じてきた意味での活動にはなり得ない。

ここで私は、正確さ・流暢さ・適切さといった外国語教育の概念を持ち出すつもりもないし、こうした児童たちの言動を流していた教師の振る舞いの是非を論じるつもりもない。仮に彼らに、発音的にこう言うのが正しいとか「質問はもっと声のボリュームを落として、こういうやり取りでやろう」などと、条件や目標の面から諭すフィードバックを「効果的に」したところで、納得を伴って乱が治まることはないだろう思われる。松本 (2019)のまとめを借りれば、行為か活動かは「活動において個人あるいは集団が名目上の動機に従っているのか、あるいは活動の真の意味を理解した上での動機に従っているのかによって」区別される(pp. 102–103)。ビッグボイスの乱は、授業で行われている「コミュニケーション活動」の多くが、児童・生徒を「名目上の動機」に従わせるものであったり、それすら無しに操作-行為を強要するものである時、それを通じて身につけていく(外国語による)コミュニケーション観とはいかなるものであるのかということを告発している(少なくとも私に対して告発した)。この告発を直視し(eye contact)、手を挙げて(gestures)、大きな声(big voice)をあげなければならないのはむしろ外国語教育研究者の側ではないのか。

実際、私がこういう話をすると単元構想において先生がたが頭を抱えるのは、小学生は好きな色や誕生日を尋ねて一体どうしたいのか、答える側も本人確認や合コン以外のタイミングで誕生日を言うチャンスは本当に来るのか、お互いの誕生日を伝え合うことのコミュニケーション上の意味は何なのかといった、活動へ向かう上のそもそもの問題である。そのレベルからの授業づくりの葛藤に伴走できる英語教育関係者は、おそらく今のところそれほど多くはない。

参考文献