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石川さんの新刊

は、大学で教員養成に携わる者や教育委員会等の研修担当者こそ読むべき一冊。

つまり石川さんのスタンスと取り組みは、大学での教員養成やフォーマルな研修から離れた、ある意味で最も遠いところにありながら、逆に既存の教員(採用・)養成(・研修)の仕組みに対して穏やかながら鮮烈な投げかけになっている。そう思うかどうかは読み手次第だろうが、少なくとも私は石川さんの現状認識とスタンスについての冒頭の一節を読んで、頭をガツンと殴られた思いがした。正直、英語教員養成担当者の認識と実態は200周ぐらい遅れている気がする。

ぼくは、民間教育運動に長くかかわり、現在のセミナー開催モデルを全国に先駆けてつくってきました。しかし、この数年、肥大化し、消費財化する研修会が、ほとんど教室を先生を子どもたちを幸せにしていないのではないかと感じてきたわけです。(中略)

そのようにして見ると、例えば都内では、これまでの民間教育運動の流れとは系譜を異にする若手の学びの場づくりの動きがはじまっていることがわかりました。ぼく自身が情報をトリミングすることで、そのすぐ外側で起こりはじめている動きに気がつかないでここまで来てしまっていたのです。そうした若手の動きは、これまでの文脈を踏まえていないわけで、すでにたくさんの実践事実が積み上げられている領域を、まるで新しい田んぼに足を踏み入れるようにして進んでいる面もあります。それを、歴史に学べと頭ごなしに言うのか、まずは一緒にその田んぼに足を踏み入れて歩きながら、一緒に考えていくのか(p. 10)。

前著以上に興味深かったのは、石川さんが学校訪問時に、可能な限りそこで授業をするということだ。何を持って授業の「成否」とするかという問題は措くとして、飛び込みでの授業は(本人の認識としても)うまく行ったり行かなかったりするわけだが、そのありのままの姿を見せることを通じて、その学校の先生に多くを気づかせることになったり、その後の対話の糸口となったりしている。まさしく一緒に田んぼに入って田植えをしながら会話している感じ。

これは私には(今のところ)真似ができない。普段ワークショップや模擬授業で教え方を体験的に紹介することはあっても、それは実際にその先生が教えている児童・生徒たちに授業をするのとはだいぶ異なる。授業観察時に対話相手やコメンテーターのような形で参加することはよくあるし、私が単独で児童・生徒たちに授業をすることももちろん可能だが、どうしても「大学の先生が!」になってしまって、特別感が生じるのは否めない。

以前、私が「助言者」として一緒に授業を作っていた高校の先生に、引き続きの協力を依頼された際、次の一節を引いて、「こういう感覚を先生がたと実感を伴って共有できればゴールかなと考えている」と伝えたことがある。

“Most important, perhaps, it is an education that is neither beholden to what was nor obsessed with what is, but that is oriented to the expansive possibilities of what might be” (Davis, B., Sumara, D., & Luce-Kapler, R. (2015). Engaging minds: Cultures of education and practices of teaching (3rd Ed.). Routledge., p. 186).

おそらく最も重要なことは、「どうであったか」に必要以上に縛られるのでも「現在どうであるか」にとらわれるのでもなく、「どうであり得るか」という発展的な可能性へと向けられているのが教育だということである。

石川さんの「伴走」の仕方は、観察を通じた振り返りや校内研修での提案・ファシリテーションもまさにこれを体現するものであり、自らが子どもたちに授業をすることを通じても、むしろそれを一つの契機として、先生たちとの間に(自分たちだけでは気づけなかった)what might be を考える空間を作っていけるということだ。得がたい。

もう一つ石川さんのこだわりを感じて嬉しくなるのは、その際、「教科の持つ固有のおもしろさ、専門性に基づく楽しさをベースとした学びを実現しない限り、子どもに学ぶことそのもののおもしろさは伝えられ」ないという考えを堅持していることだ(p. 88)。この辺りに、「まずは一緒にその田んぼに足を踏み入れて歩きながら」も、先人の優れた田んぼに学び、田んぼを作り、共有してきたらしさが表れているとも言えようか。そばを走っていれば何でもいいわけではないのだ。

一人ひとりの子を大切にするのは当たり前のこととして、授業の質を議論するには、専門的な素養が必要で、個々の教師が一所懸命学ぶ必要があるとぼくは考えています。地方都市の疲弊の連鎖を砕き自ら生活改善できる力は、学力保証とセットです。学び続ける力=学びの基礎体力を育てることが必要です。教科学力を大切にせず、子どもの活動の活発さなどに安易に話を回収してしまっては、個人とコミュニティの将来的な支援にはつながらないと感じています。

校内研修のなかで、とかく子どもの参加状況や活動状況の話に落とし込まれてしまいがちなところを踏みとどまる。どんな学びの力を身につけさせてあげたいのかに引き戻して議論する。ここを大切にしたい(p. 88)。

そして、こだわりを感じて嬉しくなると同時に、むしろ教員養成課程でこれをどこまで守れるか不安になったり、いやそもそも守れて来たのだろうかと訝ってしまう。

知り合いの名前が何度も出てきて個人的には日記を読んでいるような気持ちにもなったが(笑)、前著と併せて、自身の教育実践に対する実存的なあり方に引き付けながら、多くの教育関係者に読んでもらいたい。