[雑感068] 大学入試の民間試験利用問題で論じるべきこと(その1)

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以前Twitterで「賛成であれ反対であれ、センター試験や検定・資格試験の表面的妥当性で議論するの止めたほうがいい」とつぶやいた際に、その意味や意図を尋ねてもらったことに対する返答をここにまとめておく。

の冒頭で、「妥当性の点で学習指導要 領との絡みがちゃんとしていないという理 由で外部試験をちゃんとさせようとすると いう主張の仕方は、僕はまずいと思っています」と述べたこととも関連する。

「表面的妥当性」とは、その試験で求められている反応が実際に英語を使用する状況にどれくらい近いか、とか日常で実際に使用する英語表現・やりとりががどの程度忠実に再現されているか、といったことを指す。なぜそう言うかというと、そこばかり見ていると、最大の問題は機会公平性と実行可能性のレベルにある(許容し難いレベルで現状より悪化する)ということが見えにくくなると考えるからだ*。

反対派が各種資格・検定の妥当性が低いと主張する時、その改善に必要なコストを誰が負担するのかや、実施体制が悪化するリスクをあまり考えない。しかし「OK、妥当性を高めます。そのために人手も増やしたので値上げし/実施回数・場所を減らします」と言われた時、被害を受けるのは受験生である。

賛成派もセンター試験を含む従来の試験の妥当性を責め立て「4技能」を喧伝しようとするわけだが、そもそも大学入試が毎年の選抜である以上、必要なのは安定的な弁別力だということを考えていないか無視している。表面的妥当性の議論はセンター試験と同様の実施体制が整って初めてできることだ。

この状況に「『公正公平ではない』という社会の批判に耐え」ろと言った人がいて、これは、「認知もしないし面倒も見ないし養育費も払わないけど、とにかく俺の子を産んで、周りから何を言われても頑張れ」みたいな最低クズ野郎発言のようなものだが、私が冒頭のつぶやきをしたのは、一方でこの件に関して試験の(表面的)妥当性でやいのやいの言う人たちには、どこかに完全無欠の、万人が納得する完ぺきな試験が存在するという幻想に囚われている部分があるような気がしていたからだ。そんなものはあり得ないわけで、一旦テスト熱を覚まして、できること・すべきことを考えた方が良いと思う。

もう少し言えば、なぜ明らかに道理が引っ込む状況になってまで無理を通そうとする人たちがいるのか、誰が得をし誰が損をするのか冷静に見極め、自分の立場で守るべき者を守れる状況なのかよく考えてから中身を云々してほしいというわけである。少なくとも専門家・関係者を自認する人で、現状を見て無理筋だと思わない人は、分野に対する視野や、出揃った情報から帰結を見通す力が圧倒的に貧弱であることを認めて欲しい。そして公教育にかかわることについて永久に口をつぐんで一切の活動を停止して欲しい。

いっそ、来年の英検やGTECは全て離島のみを会場として開催してはどうか。

(続く)

 

* 究極に妥当性を求めた結果が、「受けるくらいならボヘラプ観に行って語ろうぜ」だったりするのだが、その話は今は措く。

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