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9月入学の是非が議論され、多くの自治体が学校再開に向けて動き出す中で、前記事([雑感077] ポスト授業内外の世界)の内容を詳しく聞きたいということで、新聞の取材を受けた。

余計なことも含めあれこれ1時間半以上話して、(概ね、言い過ぎな部分は載せず、これは落とさないで欲しいということは残して)コンパクトにまとめてくれて感謝という感じだが、紙面の制約のないこちらで補足をしておく次第。

私は、理念としての「9月入学」論自体に反対はしない。ふだん私が考えるのは自身が所属する大学の教員養成課程についてだが、全体を秋入学に転換するとすれば、実習や採用試験等々、教務上・制度上クリアしなければならない問題が多すぎて、「教員養成課程があるところでは移行期にたぶん誰かが死ぬ」と断った上で、3月に下記のツイートをしているぐらいである。ただ、COVID-19に起因する学校の休校・再開に対してこの議論を持ち出すのは、全く筋違いだと思っているということだ。

9月入学の議論をしだすと、学齢の扱いや入試・行事等、上記の実習等々の外的事項に関する課題が噴出する。費用や教員不足の問題も出てきたので、いかに実現可能性が低いか(少なくともそれを実施するためには相当の条件準備が必要なこと)はずいぶん明らかになったと言えるだろう。

しかし、こういう議論の仕方をすると、山積する課題が解決できれば、あるいはそれを上回るメリットが見出されれば、9月入学論は、COVID-19によって学校教育が被っている影響に対する特効薬のように響く。それは完全に誤りであり、9月入学を真剣に論じるためにも不幸なことだというのが、今回取材を受けた記事で「9月入学を議論するのは恥知らずであきれる」と述べた理由だ。

上掲の朝日新聞で整理されている「利点」で、「中止した運動会や修学旅行などの行事をできる可能性も」は、「来年になればワクチンができてオリンピックができるかも」と同じレベルの発想で議論に値しないことは明らかだろう。そんな危うい賭けで制度を大きく動かして、第二波、第三波によって何も実施できなかった場合、誰が責任を取るというのか。

9月入学にすることで留学に利点があると考えるのは容易い(朝日新聞のまとめの言い方では「欧米諸国と入学・始業時期がそろうことで留学生の往来が増え、大学の国際化が進む」)。しかし、こちらを見ると、日本から留学する者の数は2018年のデータで11万5千人程度である(この統計に入っていない語学留学者等もいるとは思うが、議論全体に影響を与えるほどではないとみなして、今は措く)。留学者の大半が高校・大学(院)生だと考えて、2018年に合わせて学校基本調査の数値を用いると、614万5千人のうちの11万5千人であることがわかる。つまり、2%に満たない層の話なのだ。横断的に見れば、(さすがに幼稚園段階は除くとして)小学校から義務教育学校や専修学校、各種学校まで含めて1600万人以上の内となれば、0.7%である。小中学生の、まだ高校生・大学生になっていない層が後にこの11万5千人を形成するので、潜在的留学者はもっと多いにせよ、そして入学時期にすることで留学がしやすくなってその数が増えるのは事実かもしれないにせよ、ともかく大半の児童・生徒・保護者にとっては関係のないメリットであることは明白だ。

こうした議論の根底には、この間の「自粛要請」や10万円給付をめぐるゴタゴタに象徴されているのと同じ発想がある。つまり、それを享受できるだけの「強い個人」のメリットを優先する考え方だ。長期の我慢に耐えられる者だけが、安定した世帯主が存在し、すぐの給付がなくても生きていける者だけが、留学に行かせられる経済的環境に恵まれたものだけが、このメリットを享受することができる。明日も知れぬ状況で、どれだけの家庭に子どもを長期留学に送り出す余裕があるだろう。というよりも、飛行機もろくに飛んでおらず、どの国も混乱する今の状況でどこに行かせるというのか。どこが受け入れてくれるというのか。そして、誰が今の状況で日本に留学して来れるというのか。

このメリットを主張する人たちは、「われわれは今すぐどうこうの議論をしているわけではない。5年先、10年先を見据えて言っているのだ」と反論するだろう。それこそが私が、9月入学の議論が「全く筋違いだ」と断じる理由である。COVID-19に起因する学校の休校・再開について先に議論すべきは、今の児童・生徒・学生たちのことであって、それ以外ではない。9月入学の利点を何事か持ち出すのであれば、今の児童・生徒・学生が剥奪されている学習の権利や、これから学校で直面するリスクについてのものでなければならない。

そのような視点に立つ時、朝日新聞の記事に挙げられている「…学校運営がしやすくなる」というのは管理者側から見た利点に過ぎない。それはあっても構わないし重要ではないとは言わないが、一方の課題に挙げられている内容がどれも学習者が保護者に直接影響があるものであることに比べると貧弱だし、本当にそうなのかも怪しい。そして、唯一認められそうな利点として残るのは「学習の遅れを取り戻す時間を稼げる」ということであるが、「学習の遅れを取り戻」せる根拠はなく、現下の9月入学論は結局のところ「時間を稼げる」ことのみに収斂する。

休校中の各学校の様々な取り組みの努力には敬服するより他ないが、全体としては「学習の遅れを取り戻」すという時に多くが想定しているのも、取材された記事で解説した「計画されたカリキュラム」の予定通りの実施であるように思える。つまり、これも教える側の理屈なのだ。「学習の遅れを取り戻」すための取り組みが、教える側のアリバイづくりや自己満足でしかなく、学習者に届いていないとしたら悲劇だ。そして悲劇は見えないところでひっそり上映されている気がしてならない。

休校中の課題や「授業」を様々に配信している学校は、児童・生徒がどの程度、どのようにそれに取り組んでいるかを把握できているだろうか。私はそれこそが気になっている。YouTuberもどきになるなら、子どもたちのthumbs-upやthumbs-down、そしてコメントを真摯に受け止めコンテンツを充実させていなければならない。仮に受動的な学びのスタイルに限定したとしても、これまで教室で子どもたちが経験していた身体性や関係性はほとんど損なわれたままだ。仮に動画でディズニーランドのアトラクションが提供されたとして、それを観るだけで「ディズニーに行った」と思える人はいないだろう。映画鑑賞の比喩には、「(AmazonプライムやNetflixのように)オンラインのメニューにコンテンツはたくさん並んだが、誰もそれを観てなかったし、それについて語り合うこともなかった」という哀しい事態の予測を含ませている。まして子どもたちは単なる客や視聴者ではなく、ちょっと前までそのコンテンツの演者であり製作陣であったのだ。

もちろん全ての子どもがそれを楽しんでいたわけではない。しかしまず認識すべきは、教授・学習からみて学校がそういう時空間であったことで、だから前記事に書いた通り、われわれが考えるべきなのは「いま、児童・生徒・学生からどういう経験が失われ、どういう環境でどういう時間の流れを過ごしていて、そこにどういう(両方の意味での)カリキュラムを提供することができるのか、すべきなのか」だと言うわけである*1。休校期間の各学校の様々な取り組みに見るべきも、「オンライン」の小手先のどうこうではなく、その時空間を取り戻したり新しい形を模索する実践的営為のほうではないのか。

学校が再開されても、先生やクラスメートとの距離感、授業や行事で経験できることの質は以前と同じにはならない。仮に修学旅行に行けたとして、観光地で集まってキャッキャしていれば叱られたり「自粛警察」に通報されたりしてしまうのだろう。当然、枕も投げられない(枕投げが絶滅してたらごめんなさい)。行事や部活で、自身や仲間の活躍に歓びを爆発させる場面でもハイタッチは厳禁なのだろう。いや禁じたところでおさえられるものなのか。再開するというのはそういうことと向き合うということだ。クラスサイズを小さくして現行と同じ授業数を実施しようとすれば、先生の担当授業数は倍以上になってしまうのだから、教員の数を増やすしかない。「そのためのインフラ整備をするのが教育行政の仕事」と述べたのはそういう意味だ。英語の授業について言えば、向かい合ってのペアワークやグループワークはしないことと既に言われている状況を耳にしている。ペアワークやグループワークがないからコミュニケーションが成立しないとは私は思っていないが、悩んでいる先生は多いに違いない。大きく変容せざるを得ない教室での授業で、各教科について、児童・生徒や先生がたと考えなければならないことはたくさんある。入学時期を動かしたところで、それが全く解決しないことは明らかだろう。

2月末に一斉休校が決まった後の期間、学校がないことで多くの人が実感したのは、あるいは改めてクローズアップされたのは学校の保護機能だったと言える。端的に言えば、自分たちが仕事をしている間に子どもを預かって見ていてくれる存在として、給食を提供し、場合によっては命を守ってくれる場所として。再開される学校の教育課程についても、そうした側にこそ目を向けた議論をしてほしい。マスクの流通は解決に向かいつつあるが、4月のはじめに、同僚が公開した「コーヒーフィルタを使った簡単なマスクの作り方」をシェアしたのは、登校日にマスクをしていなくて叱られた生徒の話を聞いたからである。(当時の状況では今以上に)売っていないのにどうせよというのか。そうして、これまでの雑巾や道具袋等々と同様に、「買いなさい」、「家で作ってもらってきなさい」的な圧力が強まる。朝、家族の誰かがマスクを買いにドラッグストアに並べる家は良い(並ばないほうが良い。並ばないで済む社会にしてくれ)。布マスクを縫える余裕があれば良い(布マスクは届いていない。届かなくていい。それにかかる費用をもっと意味のあることに使ってくれ)。そうじゃない家(の子ども)は「悪い」のだろうか。いい加減なマスクの付け方をし続ける大臣ならまだしも、この生徒が叱られなければならなかった理由は私には全く分からない。今後、こうしたことが様々に出現するだろう。

学校に期待し過ぎじゃない?と思うかもしれない。学校がなくなればきっと喜び、学校がなくても勝手に学んだであろう私のような層は休校云々をそれほど深刻に考えないし、実際私がいま小中高校生ならそう考えるだろう。しかしそう思うのは私のバイアスで、知らぬ間に学校内外で経験してきた様々なカリキュラムの総体が今の私を私たらしめている可能性は否定できない。教育とはそういうもので、「教育行為を考えるのは大人の責任」と述べたのはそういうことだ。公教育が果たしている役割の何を重要だとわれわれが考えるのかが問われている。多くの理不尽さの吸収や、喪われたもの、喪われるものの補填を子どもたちに放り投げて「まあ何とかなるでしょう」と高を括るのはただの無責任であって、教育を語る者の姿勢ではない。

*1 この点で示唆的だったのは、4月に放送された

だ。特に、この騒ぎの前は、授業から帰った後も自ら好んでインターネットで情報を収集し考える児童であったたっくんが、一斉休校の12日後、そうしたことをしなくなっ(てYouTubeで音楽聴く程度になってい)た理由をディレクターに問われ、こう答える。「なんか調べんのめんどくせってなってきてる。なんか、なんか、調べたいっていう気持ちがなくなってる。(なんで?)わかんない。たぶん学校ないから。ひまで、なんか、そういうの思いつかないのかなって。(え学校ないとなんで思いつかないんだろうね?)暇だから。なんでだろう。(あんまり考える刺激がない、みたいな?)[二、三度強く頷く] はい。暇だからなんか、頭がなんか、考える気なくなったのかなって」。いま学校と授業について考えるべきことについて、彼の言葉と表情は多くのことを問いかけているように思う。