[レビュー079] 坂本『体育がきらい』

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先に田村氏のブログ記事川村氏のブログ記事を読んでいたこともあってか、「まあね」ぐらいの感じ。

ちくまプリマーの内容としてはこれぐらいかもしれないが、大きく2つの感想。

(1) これまでの体育科の実践の蓄積に照らしてそういう整理でいいのか、というのがひとつ。私自身も体育は嫌いだったし、そういう大衆の感情を整理していると言えば整理しているが、例えば器械体操にしても、その運動・競技に固有の不可避の問題なのか、身体生理学やスポーツ科学の知見としての運動・競技の特質を捉えた教育内容にその学習者が不幸にして出会わなかったのかは別の問題だろう。学校社会学的な考察はあちこちに見られるとしても、肝心なところで著者自身の個人的体験を「私がそうだった」と持ち出されると勿体無いなと思ってしまう。

(2)私自身も、英語教師の「英語マッチョ」が教育上もたらす罪をあちこちで批判してきた口ではあるのだが、今は、教師がその教科を「好きにさせようとする」ことについて、「好きにならなくていい」と片付けるだけでいいのかということを、そこに潜む「学習化」の危うさも含めて、考えている。「好き」という概念の幅も強度も様々で、教師がその対象を「好き」という言葉で捉えている必要は必ずしもない(逆に「好き」でも構わない)し、結果として学習者が「好き」になるかどうかをコントロールできると思わない方がよい、というのはその通りだろう(ただし前半の内容を著者が本書で明示しているわけではない)。

しかし教育実践が価値的な営みである以上、「好き・嫌い」という軸を避けたとしても、上掲の川村氏の記事にあるような価値観を伝えようとすれば、抽象度や射程の違いはあれ、それはモダンかポストモダンかの差ぐらいのもので、教師からの働きかけという教育作用の性格に本質的な差はない。とすると、その担い手である教師が「教科を好きにさせようとすること」の意味は、教育学・教師教育・授業研究としては、もう少し慎重に考えなければならないのではないか、と最近は考えている。英語マッチョは相変わらず嫌いだけど。

つまり本書に私がそれほど満足していないのは、敗北しない体育教育のあり方が、教育の側で展望される以上に、学習のほうで回収されて終わっているように映るからだろう。さらなる展開を期待したい。

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