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[本087] クマラヴァディヴェル『言語教師教育論』/マーサー&ドルニェイ『外国語学習者エンゲージメント』

[本087] クマラヴァディヴェル『言語教師教育論』/マーサー&ドルニェイ『外国語学習者エンゲージメント』

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英語授業を語る会・静岡で、そういう時間があれば紹介しようと思っていた文献。

指導主事や中堅以上の先生向けというところ(もちろん学生・院生がゼミで検討するのも良い)。値段は張るが、訳者座談会とTESOL Quarterly誌上での「ポストメソッド」をめぐる討論の訳を収録していて単なる翻訳以上の仕上がりで、オススメできる。実は対面ではまだ一度も会ったことがないけど、一緒に読書会をしていて、共通の知り合いも多くて、同世代で共通のミームも多過ぎて旧知の間柄のような南浦さんの共訳書。

第6章でクマラヴァディヴェルは「見る」ということを、seeing-in、seeing-as、seeing-thatの3つの形態に区別する。南浦さんたちの訳語に従えば、それぞれ「見つめる」、「〜として見なす」、「〜を見とおす」となる。模擬授業や実習時の学生の様子を見てきた経験から言えば、観察者の視点で「見つめる」ことがそもそも言うほど簡単ではない。そして、経験を積むにつれ、児童・生徒のあらわれを「〜として見なす」ことによって意味づけしていくようになる。授業後の協議会で教員同士がやり取りしているのは大部分このseeing-asだと言える一方で、その意見の妥当性は、具体的に何をseeing-inしていたのかによって判断されることになる(われわれからすれば「ちゃんとその授業の、そこにいた児童・生徒のあらわれで語ってる?」ということが気になる)。といった整理に使える「みとり」の分類だ。

訳者たちは「見(る)」で揃えるために訳語に苦心したことと推察するが、seeing-thatは、より解説的に訳せば(あるいは私にとって腑に落ちやすい形に訳せば)「…だと理解する」といった辺りだろう。as以下の名詞句は(比較対象や過去の経験に照らした)見立てだが、that以下で命題の形で切り取る、その切り取り方に各人の見方・考え方が示される(つまり、ここには「Aという生徒がBをした」と理解する、というような授業中の個別事実の報告が入るのではなく、そのことの意味を「BはAにとってCである」、あるいは「このことからA/このクラス/この授業・教科には、あるいはこのクラスには、Dが重要なのだと」と理解する、といった内容が入る)。授業後の協議会でseeing-asを出し合っている中で滲み出るのが、その教師のseeing-thatだろう。要するに「観」の話であり、語る会で議論していたことともつながるわけだ。

こちらは経歴の浅い先生を中心に中堅・ベテランまで。ただし、キャリアが浅くて各項目の実例が浮かばない人は何らかの形で具体の補足が必要だろう。かつて「生き方が見えてくる高校英語授業改革プロジェクト」などでお世話になった鈴木先生の共訳書で、とても読みやすい。一点だけ残念なのは文献紹介欄で訳書に言及がないこと(例えば、Ripley (2013)には『世界教育戦争』という邦訳があるよ、など)。ここは訳者というより編集にがんばってほしいところだった。

これまでの動機づけ研究や学習科学の知見を「エンゲージメント」という(授業研究を基軸とする教育方法学からすれば今更かよと思わなくもない)概念で括ったものだが、各章の原則や行動の提示の仕方は端的で悪くない。必要条件とも十分条件とも言い切れないが、良い先生が満たしている要素は大方網羅されていると感じる。自身の信念や授業スタイルと照らして点検してみるのにも使えるだろう。

例えば私は、本書で解説されている(a)学習者エンゲージメントを取り巻くもの、(b)学習者の促進的マインドセット、(c)教師と学習者の信頼関係、(d)ポジティブな教室力学と教室文化、(e)タスク・エンゲージメントの喚起、(f)タスク・エンゲージメントの維持の6カテゴリーの中で、やはり(e)と(f)にこだわってきたし、(e)はかなり理詰めで、(f)は私自身の感性的なものを加味して授業を計画していると言える。外国語教育を論じる上では、それを支える(c)、(d)も当然大事であり、教師一般の問題として、あるいはコミュニケーション活動のデザインなどに即してそのことを研究・実践してきたし、関わってきた学校やクラスに時間をかけた(c)、(d)の醸成を感じたりもしてきた。具体的内容は本書を参照されたい。

そして私としては依然として、(c)、(d)を基盤とした(e)、(f)に関心があり、小中高(大)の英語の授業にはまだまだそこに課題が山積していると思う。しかし、昨日の語る会で議論になった、「学びに向かう力・人間性の涵養」だの「主体的に学習に取り組む態度」だのについての現在の取り組みは、そこをすっ飛ばして(b)だけをどうにしかしようとする議論に見えることが少なくなくてイヤなのだ。(c)、(d)の上に(b)を考えることは否定しないけど、(b)だけに腐心するぐらいならまずは(たのしい授業や学校生活を通じて)(c)と(d)をがんばろうよ、と思う。

といったことが本書を通じて整理できる(上の文献とつなげて言えば、そういうseeing-thatに役立つという言い方もできる)。この点についてはさらに、クマラヴァディヴェル (2022)のほうで紹介されているリトルウッドの「順向的自律性」と「触発的自律性」の議論も参考になるだろう。

マーサー&ドルニェイ (2022)の各カテゴリーを語る会や教員研修で時間をかけて取り上げて、各自の経験と対応させたり、具体化していくのもアリかもしれない。そこに学生が混ざってくれるとなお良い。

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