[本029] 下司ほか(編)『教育研究の新章: 教育学年報11』

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を読了。以前から石井さんに話は聞いていたものの、かなり興奮しながら読んだ。どの章も大なり小なり著者の批判精神やこだわりが見えて良い。日本全国で院生や若手が読書会をして大いにたぎることを願う。

キレ味ではなんと言っても高橋論考と仁平論考がピカイチ。専門ではないからかもしれないが、思わず唸った。われわれは「国家との関係において、教育に対してあることを『してはいけない』という不作為義務を求める」議論で主に学んできたが、条件整備教育法のような「国家が何かを『しなければならない』という作為義務を求める」「攻めの教育法学」に学生時代に触れていたら、教育法学を専門に学びたいとすら思ったかもしれない(p. 209)。覚悟と熱さ。「アクティベーション」を軸とする仁平さんの議論は、圧倒的な視野の広さと深さでわれわれをぶっ飛ばす。冷静で熱い。例えば「外国語(英語)ができないままでいる自由」みたいなことは英語教育の人の多くは考えてみさえもしないだろう。

石井論考は、これをこれだけ見事な形でまとめられるのは石井さんしかいないだろうなと思うものの、もうちょっと踏み込んで斬って欲しかったなというのが勝手な感想。途中で少し触れ、後半で「学び」論(と「学習」の共振)によって、教育実践(あるいは「教えること」)が「概念的にも実態的にも貧困化させ」られていることに触れてはいるが(p. 131)、教育方法学が「教育実践の主体性が拡大したことで生まれた学問分野」(p. 111)だとすれば、カリキュラム研究や教育工学的研究、心理学・経営学由来のキャッチービジネス教育書ブームはそれに何か資したのか、それとも害したのか、もっと言い過ぎなくらい言っても良かったのに、と思う。もっと言えば、年報第2期に対する総括として、佐藤学さんや「学びの共同体論」の功罪について誰かが教育方法学的にズバっといかないと(そしてそれが雑じゃない形でできるのもたぶん石井さんぐらいしかいない)。

その点で岩下論考は攻撃的で言い過ぎだけれども荒ぶりに好感が持て、青木論考は言い分は尤もだが唯我独尊的なダメ出しに終始していてちょっと好きになれなかった。しかも座談会で仁平さんが厳しくツッ込んで、岩下さんの言い過ぎを露わにし、結果として岩下さんを救うことになっているのが良い(この回の座談会で、斬りかかられた下司さんが、タックルされた分は後で答えるって言ってるのに原稿として全カットされてるところ好き)。

個人的に、自分が赤木さんと濱中さんの語り方というか眼差しというかが好きなことも再確認。こういう文章を書ける人に憧れる。

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