[本054] 大泉(編)『日本の子ども研究: 復刻版解題と原著論文』

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最も気の置けない後輩・田岡昌大さん(大阪青山大)より恵投いただいた

は、タイトルの通り、明治・大正・昭和の心理学的アプローチによる子ども研究を編集・復刻した同シリーズ(全15巻+別巻5冊)についての編者の大泉氏による企画趣旨解説および収録文献の解題と、大泉氏を含む6人の著者による日本の子ども研究に関する原著論文を収録したものである。

値段が値段だけに簡単に手に取ってもらえる一冊ではないが、研究者の矜持と良心を感じる優れたアンソロジーで、教育学研究者には広く一読を勧めたい。

敬愛する後輩を持ち上げようとしてそう言うのではなく、まず冒頭の大泉先生の企画主旨解説が熱い。城戸幡太郎の「問題史」の方法や当時の時代状況に触れつつ、歴史に残る研究とはどのようなものかを論じる中で次のように述べる。

最近の若い研究者が興味を持つような政策動向や新奇な事態を現象的に注目するジャーナリスティクなデータ集めや新興の脳科学、臨床的分野の「質的研究」など、学界の流行に目を奪われがちなのではないか。たとえば、それらの中のめぼしい研究方法に合わせて対象を措定し、ともかくもデータを集めて統計的に推計したり、グランデット・セオリーなどの質的研究法でデータを処理することで手際よく論文化しようとする。そうした場合には、最近の研究動向が気になるだけで、歴史的反省や史的批判による研究方法の自覚が生起しようもない。なぜなら、それは結局のところ、“追いつき追い越せの世界”なのだから。たしかに、そうしたやり方で卒論や修論、時には博士論文をまとめることはできるのかもしれない。しかし、そうしたものは読んでもおもしろくない。なぜなら、現場で四苦八苦している実践者たちに上から(又はヨコから)ものを言うことにしかならないからである。学会の主流はもとより、反主流からさえも無視されがちな子どもたちの問題にこだわって10年くらい続けると、心ある人たちからは少なくとも一目置いてもらえるような研究になることだろう(pp. 13−14。太字は引用者による)。

今後研究者の人手不足が深刻になることが予想されるとしても、いわゆる「ロスジェネ」の後期の世代としては、果たしてそれで突っ走った結果として安定した職を得ることができるのか不安にはなる。しかし、「主流はもとより、反主流からさえも無視されがちな子どもたちの問題にこだわ」るという姿勢は、研究者であり続けるために重要なメッセージを含んでいるように思う。

そして、ここで批判されているような「最近の若い研究者」であった私は、そういう問題にこだわる研究者の一人である田岡さんがいなければ、城戸幡太郎が書いたものにせよ、倉橋惣三や留岡清男が書いたものにせよ、あるいはそれらに関する研究にせよ接することはなかったと思うので、その角度からそこを照らすか〜といつも私を感嘆させてくれる後輩にやはり感謝したい。

収録された原著論文の内、田岡昌大「城戸幡太郎の子ども研究: 立場と生活からヒューマニズムへ」(pp. 194−254)では、戦前に偏りがちな城戸の教育思想研究に対して、戦前と戦後のテクストを丁寧に分析することで、戦後に城戸が持ち出す「ヒューマニズム」について以下のことを指摘し、1920年代からの連続性と断絶、そして「子ども」という存在に対する城戸の認識論的特徴が明らかにされる。

「ヒューマニズム」は、戦前でいうところの「生活」に対する「イデオロギー」としての位置にあると考えるべきだろう。ただし、それは二重の意味としてである。一つには「人間性」を限界づける「イデオロギー」であり、もう一つにはその限界を高めていく際に対象とされる意味での「イデオロギー」としてである(p. 244)。

城戸幡太郎の文章は読み難い。この点で、城戸の「教育史の研究法」という論文に対して、この論稿で引用されている宗像誠也『教育研究法』での批判が、遠回しの悪口とも言える評価を含んでいて面白い。「(中略)この該博な引用による広い論点と深い暗示とを持ちながら、十分ていねいには論旨が展開されていず、一々の言葉や概念も疑義を残さぬまでには整理されてはいない、読みにくい論文の真の意味を、残りなく理解することは私には不可能なのであるが(後略)」(p. 50 [田岡, p. 208])。この宗像の評価に同意する田岡さんも、現在までのキャリアの大半どっぷり城戸に浸かっているが故に、その影響を少なからず受けているきらいがあり、この論稿の文章も、私のような忍耐力に欠ける者にとってはときどき読み難い。城戸の引用をする時点で読み難くなることは避けられないのだが、文章の城戸っぽさを弱めてもだいじな考察と指摘が伝わるよう、どうにかがんばって欲しい。

私にとって本書で最も激アツだったのは、加藤弘通「留岡清男の実践思想に着目して: 不良児研究における実践性の問題」(pp. 255−276)である。最近読んだものの中でいちばん興奮した。その理由は第一に、「北海道家庭学校の経営のなかで不良少年の更生に携わ」(p. 255)った留岡清男の実践思想を取り上げ、「いわゆる〈うまくいった〉実践や〈分かりやすい〉実践であふれている現在の〈役に立つ〉実践的な書物とは対照的」な留岡の、「このような苦難や失敗を記述した研究書が示している実践性とはいったい何だろうか」(p. 257)と問う鮮やかな課題設定にある。

さらに、両者の生活綴方教育批判を通じて留岡と城戸幡太郎の実践観を対比することで、「城戸の思想において、生活問題を解決すること(=生活/社会をかえること)は、個々人の能力を高める事による『貧困の克服』であるが、留岡の場合は『貧困が生み出される(可能になる)仕組みの克服』である」(p. 267)ことを明らかにし、「城戸の実践観が個人を補強する思想であったのに対し、留岡の実践観は、個々人のつながり方を補強する仕組みを構築する、すなわち関係性を補強する思想であった」(p. 267)であったことを端的に指摘する。ここまで引けば、教育(方法)学界隈の人には留岡の現代的意義は明らかであろうし、加藤さんがわずかに示唆しているように、城戸のロジックに「現在の新自由主義と言われる政治家が好んで使う経済政策の論理」(p. 264)との共通性を見て取ることもできるだろう。

上記の分析に対して、城戸の解釈を割り切りすぎだと田岡さんには批判したいところもあるかもしれないが、田岡論稿が城戸幡太郎の予備知識を与えてくれることもあり加藤論稿は非常に読みやすい。その点でも本書は良い構成となっている。両論文とも、教育学研究のお手本の一つとしても薦められるので、せめて大学図書館など学生・院生の手の届くところに常備されて欲しい。

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