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有志とZoomで実施した

の読書会は、企画した側としても驚くぐらい順調に盛り上がって途絶えることなく読み進め、10月前半に無事終了した。参加者間で共有していたノートの(私のメモの)まとめ。

第1章 教育文法: 言語教師のための枠組み
第2章 応用言語学における教育文法: 歴史的概観
  • Reflection 2.1に関して、「パターン・プラクティス」がALから生まれたものであることを踏まえると、日本では、形を変えつつそれが未だに多く見られますよね。私は、古いアプローチも今の指導に意味を持っている部分があり得るという(弁証法的)考え方をするほうなので、「パターン・プラクティス」自体が悪いとは思っていないのですが、パターン・プラクティスであるものを「コミュニケーション(活動)」と称する「もどき」には強い嫌悪感を持っています。
    • Cf. 「例えば、英語教育協議会(ELEC)および ELEC 同友会英語教育学会は、1956 年に設立された『日本英語教育研究委員会』を母体とするが、この時、米ロックフェラー財団の援助によって来日したミシ ガン大学のフリーズ(Charles C. Fries)によって構造 言語学に基づく Oral Approach が紹介された(伊村、 2003)。他方、新英語教育研究会(新英研)は、このOral Approach の普及で機械的に文の各要素を置換させるパターン・プラクティスが遍く行き渡った 結果、『英文の内容に即しての文構造理解という主旨から遠ざかり、生徒にとっても無味乾燥な学習となるケースが目立った』ことに抗う英語教師たちが 1959 年に設立したものである(新英研編、2009a、 2009b)」(亘理, 2014, 240)。
      • 亘理 陽一 (2014).「第Ⅳ部 教科・領域の教育方法学研究 第1章 言語と教育 第2節 外国語科・英語教育」日本教育方法学会(編)『教育方法学研究ハンドブック』学文社. pp. 240–245.
  • この人たちの議論は時間的単位が不明なんですよね。だから私は単元論をぶつけてるわけですが。このバランスの話も、1時間の授業の指導過程の話なのか、もっと大きな(ふだん「シラバス」という言葉が当てられるときの)時間のかたまりのレベルの話なのか(多分考えていない)。
  • 知識(knowledge)とスキル(skills)、能力(abilities)の関係とか…(Canale and Swain, 1980では「知識」として言語能力を捉えているが、Canale (1983)ではしれっとスキル的解釈に移行している)
  • Task Talkの話とつなげて言えば、インプット仮説はよく言及されるのに、他の仮説(特に習得順序仮説)は全然顧みられない仮説
  • Watari: TEACHER! (Think about what to communicate to others based on experience or thoughts, Express it and Accept what others said in turn, Copy some model you could get, Hook it with the previous knowledge and experience you have, Elaborate the message and share it in class, and Reflect on your performances) 説明すると長いので敢えて名付ければ、Focus on Communication Agency Approachかな。
    • Cf. 亘理 陽一 (2019).「対話実践的に英語を学ぶ」『教育』878, 2–10.
  • p.39: Cf. Celce-Murcia, M., & Olshtain, E. (2001). Discourse and context in language teaching: A guide for language teachers. Cambridge University Press.
第3章 文法とはどのようなものか・どのように記述され得るか
  • これは議論する必要のないことではあるが、著者たちはどうしても生成文法の理解が弱い: 精神の鏡としての言語、I-言語と統語解析器の区別など → 見ているものが違うので、藁人形としての生成文法にされている
  • 言って、より広い文脈を参照せよというメッセージの(あるいはCLのメリットとして見出しいている)割には、(p. 47のgetの例のように)現状コーパスが効いているのってコロケーション程度で、結局syntax in natureじゃない?っていう皮肉(第4章の予告も語法、慣用表現としてのメリットにとどまりそう。)著者たちだけの責任ではないが、そしてコーパス言語学の責任でもないが、コーパスやGoogle検索が「他の人も使ってるからアリだ」という免罪符(亜辞書)になっている今どうよ問題
  • コーパス言語学についての、”the ability to judge what is typically (or most frequently) done in a particular domain of use is a key component of communicative competence” (pp. 45−46)という頻度依存の正当化の議論を見ると、下の草薙さんノートで言う(a)をどこまで真剣に考えているかが気になる。集団と個人の関係。平たく言えば、みんなが典型的にすることがなぜオレの言語知識・能力にとって重要なんだ問題(Cf. p. 43下の記述)。(a)はHallidayのSFLを踏まえた(動的)「関係性」の議論だが、上記の頻度依存の能力観は平均化の話。 → 結局本音はp. 46の(2)で、SLA的に理論的正当化が可能なのは(3)ぐらいだろう(著者たちのコーパス言語学依拠の同期はp. 39下で理解)。
  • 上の3点を踏まえ、草薙さんの言葉を借りると、個人・集団・状況に帰属する、直接観測困難な、外国語の運用に関わる、構成要素の一つであるということと、言語の構造的・機能的側面に関する表象・処理の関係がブラックボックスのままなのよね、この著者たち。 SLAってそういう分野だけど。と偉そうなことを言って、私もそこに立ち入る気は全然起きない。
  • しかし、最後の「コーパスが浸透していないのは、教師のトレーニング不足だ」みたいな論調にはおこである。2.の問題はあるが、こういうダサいことを言う教師教育者にだけはなりたくない。
  • 「文脈を見よ、言語的・非言語的文脈を考えよ」の基本テーゼは尤もで、高校の「英語表現」などには徹底的に叩きつける余地がまだまだあるにせよ。
  • 草薙さんの言う通りで、初回に触れたんだけど、この人たち、この章では「文より大きいレベルに!」って言うじゃない?でもその下のphrase and clauseのレベルの理解がそもそも大事だって議論もしてほしいんだよね。意味順とか既存の指導法の課題はそこにあるので。あと話し言葉の文法の議論のためにも。生成文法 = sentence、他 = more than sentenceは乱暴の極み。
第4章 語彙と文法のインターフェイス: 定型表現・コロケーション・慣用句
  • 論点4.2に関わって、Nattinger & DeCarrico (1992) にあるような話で、カタマリ性と自由度の問題。
    • (a) Can you play soccer?
    • (b) Can you play X?
    • (c) Can you X?
    • (d) Can X?

のどこまでをformulaic chunksとみなし、(Kusanagi’s notes 1.の(b)の意味で)どれをどの段階で教えるか問題。

    • 小学校英語関係者の少なくない人が(a)を仕込むことをそれだと考えているおそれ。節子、それただの機械的丸暗記や。
    • よくて(b)として、それでいいのか?小〜高まで。(c)と(d)の味は文法の味なのか、この章で議論されていることなのか。
  • (i)の話と、(iii)の話のうっすら版はしてるけど、(ii)の話はしてくれていない感じかな。(附属の中学生と)高校生・大学生を相手にすることが多いからか、(ii)がまだ、学習者にとってありがたみある話の可能性あるんでねーのと思わなくもない。
    • (i) コロケーション: 単語と単語の結びつき
    • (ii) コリゲーション: 単語と文法項目の共起
    • (iii) コロストラクション: 単語と構文の共起(小林雄一郎『ことばのデータサイエンス』p. 111.)
  • “Over time, through repeated experiences with similar types of usage events, these connections strengthen, and learners are eventually able to automatically retrieve the linguistic forms needed for particular communicative situations.” (p. 63. 下線は引用者)
    • Usage eventsという概念はいいとして、こういう書き方が「習うより慣れろ」的態度を反映するものなのか、状況学習論的発想を含むものなのか、何にも考えてないのかビミョーなところ。これはTBLT論者にも言えること。
    • 65の教育上の、あるいは職業上の目標にとって重要な文法のパターン探そっぜ!の主張は前回議論したこととも多少繋がるとして、それで整理されるusage eventsが学習指導要領みたいなのに落ち着くとしたら草も生えない。
  • p. 64のputのくだり。毎度思うけど、この人たちはどのくらいの「量」を想定してるんかな。
余談: 文法解説書について
  • 少しだけ補足をすると、文法研究(文法指導ではなく文法それ自体の)において、記述文法の体系を示すという作業は主要事業の一つとしてたびたび行われてきました。古くは文型の元祖OnionsやJespersenなど。
  • で、途中をすっ飛ばして、80年代にQuirkたちがA comprehensive grammar of the English Languageというのを編纂して一世を風靡しました。その後のあらゆる文法解説書に影響を与えたといって良いでしょう。いわゆるSVAとかSVOAでA cat is on the mat.とかShe puts a bag on the table.のようなA(この場合、前置詞句)が文の必須要素であることを見出したのも彼らの功績です。ただ、Quirkたちの文法書には書き言葉偏重などの批判もありました。文献では触れられていませんが、Biberらのコーパスに基づいた文法書が出たことにはその影響もあるわけです。
  • で、そのQuirkらに匹敵するもの、それを超えるものとして2002年に出版されたのがHuddleston and Pullum (Eds.)のThe Cambridge grammar of the English languageです(Quirkらにひっかけてこちらも略称はCGELになるようにしている)。Huddlestonは、Introduction to the grammar of EnglishやEnglish Grammar: An outlineの著者で、どちらもとても体系的かつバランスの取れた本で、CGELのベースになっています。Pullumは音声系の言語学者かな。『ケンブリッジ現代英語文法入門』は、2005年に出たそのstudent版の翻訳ですね。
  • The Cambridge grammar of the English languageは、私はM1の時に、えいやと決意して購入しました(3万円弱した)。依頼、「手首クラッシャー」と呼んで、「絶対元をとってやる」と意気込んで読んだものです。修論の否定表現は主には別の文献に依拠しましたが、博論の比較表現の言語学的ベースはHuddleston and Pullum (Eds.)です(そもそも比較構文で一章を設けている文献が珍しかった)。この章だけで70ページあるので、それを訳すことから始めました。ちなみに、ここ2、3年の間に、The Cambridge grammar of the English languageも開拓社から翻訳が少しずつ出版されていますので、興味のある巻を手に取ってみるのもいいでしょう。
第5章 既存の教材の評価・改編
  • もっとUseに重みを置いた扱い方しようよ、というメッセージを肯定的に読み取りはしたが(p. 79にそれっぽい言及もあるにはあるが)、「最初にターゲットとする文法(諸)形式を決めよう」という記述を読んで、「それはPPPやがな、その特徴はもう絶対PPPよ、そんなんすぐに分かったがなー」とは思った。「でも分からへんのよな。オカンが言うには、著者らはTask-based推しや言うねんな」(第1章)。
  • でも確かにブリカンの図5.1はひどい(これが現在時制の「導入」教材なのだとしたら)。一般動詞と助動詞の区別もない。むしろこれは、英語の時制、もっと言うと時間表現の体系を見て回ってきた後のまとめだ(「なるほど時制の屈折は動詞句の最初の要素[主要部]が担うのか」)。
  • p. 72: Bardovi-Harlig (2000)の研究に基づいた順序問題。BEから導入ねえ。(a) 動詞らしさが見えやすいとは思えない(状態との区別がつきにくい)し、(b) 今の日本の学校英語教育の文脈において「いまさら」って話の気もする。
  • p. 80. 図5.8のような活動(小学校では、そのもっと簡単なやつでクラスメートに「インタビュー」して回ってビンゴにしたりする)がMeaningに焦点を当てているのは良いとして、学校現場ではわりとタスク的に扱われる活動だと思うんだけど、一体何のためにやるんでしょうね、という思いがいつも拭えません。訊きたいのか?っていうことと、訊いてどうするんだっていうこと。
  • 草薙さんの言う「重み付け」に関して、ここでヤング亘理の叫びをどうぞ: 「しかし問題もある。例えば,確かに(15b)〔Form-Meaning-Useの図ーー引用者注〕には受動態を用いる理由が列挙されているが,『動作主』で括るだけでは,(16)に例示するような質的に異なる動機づけが説明できない22)。
    • (16)    a. The earth was formed four billion years ago. [観念構成的]
    • b. The vase was broken by mistake.[対人関係的]
    • c. Akebono fought Bob Sap, but was beaten. [テクスト形成的](中略)

もちろん,形式に習熟する局面や,言語活動で流暢さを高める局面がそれぞれ必要なことを否定するわけではない。しかし,彼女ら自身も認めているように,適切な使い分けのために必要な各側面の比重は文法概念によって異なり,『いつ/なぜ用いるのか』の性質も細かさも当然異なる。例えば,モダリティーや否定表現では,伝えようとする内容について自分の態度をどう表現するか,どのくらい遠回しに言うのかなど,言語使用の対人関係的側面が強く表れる。他方,時間表現や名詞の(不)可算では,事物・出来事・状態をどう言語的に表現するかという観念構成的な側面が,あるいは省略・代用では,伝えようとする情報の何を代名詞などで代用し,どこまでを省略して伝えるかというテクスト構成的な側面が,それぞれ言語使用の認知的側面として強く表れる。したがって,少なくともCelce-Murcia and Larsen-Freeman (1999)のような『使用』という大きな括りだけでは,その文法概念に応じた『浸透』を考慮した体系的な教育内容構成は難しいと考えられ,『いつ/なぜ用いるのか』の側面をより分析的に扱うことができるような内容構成のアプローチが必要だと言える」(亘理, 2008, p. 26. 太字は引用者)。

      • Cf. 亘理陽一(2008)「外国語としての英語の教育における文法的能力を形成する領域の教育内容構成に関する研究: 語用論的原理に基づく比較表現の指導」北海道大学博士学位論文.
  • 草薙さんのコメントの3つ目。時間表現(の解釈)は、時制だけなどではもちろんなく、動詞句だけでもなく、述部全体で決定され、草薙さんが例を挙げているように、名詞句の個別性・集合性、あるいは定性のような他の意味論的概念にも影響を与えられて決まるってことよね。最初の扱いとして、後者は限定をかけて見えやすくするとしても、述部全体で見るのはマストだと思う。小中学生だってyesterdayやtomorrowは知ってる。そういう話をする必要がある。
第6章 オンラインコーパスを通じた文法使用の検索
第7章 第二言語学習者言語の動的性質
  • 前半と後半の温度差というかギャップというか、人格破綻ぶりに耳がキーンとなりました。
  • Nativismがどういう状況にあり、なぜ温存され、どう立ち向かうかというのが一つの論点で、後半(複雑性理論言い出すところ)はそれを強く打ち出しているわけだが、前半はnativismを拠り所とする研究の整理に捧げられており、それをどう総括するかという視点がない。無いまでは言い過ぎとしても弱い。Goldschneider and DeKeyser (2001)のような整理をもっと批判的に吟味して深めて欲しいところ。
  • p. 128の図7.1は笑うところだよね
  • 文法概念の再構造化の視点が貧弱; 以前指摘したことだけど、次が現れたときにそれまでがどうなるかについての記述がない(p. 129)
  • 疑問文について、Stage 3, 4のみを教えている、ということをわれわれはどう考えるか
  • unmarkedとmarkedについてはもうちょっとちゃんと考えたい
  • 関係代名詞について書いてあることと時制・アスペクトについて書いてることの矛盾(p. 136)
  • じゃあOrtega先生に書いてもらえばよかったじゃんと思わせる後半のまとめ。
第8章 教授に基づく第二言語文法習得: 理論と実践の関係の6つの鍵
  • FonFを主張したい人によるFocus on form/Focus on formsの対比は100歩譲って受け入れるとして、Focus on FormsからFocus on Meaningの連続体で答えは間にあるみたいに言われるとイヤだなあ。両極に含まれる赤子も一緒に流されている印象。
  • 前から思ってることですけど、implicit feedback (recast)って「察し大会」ですよね(だからnoticingだのuptakeだのに向かうんだろうけど、intera)。高度に埋め込まれたrecastがないとは言わないが、多くの場合(p. 148の例など)、会話を止めていないとか言うけど、いかにも教師的な嫌味なやり取りという気がしてならない(生徒だったら8割がた心地よくなさそう)。
  • p. 155. EllisやLoewenにたどり着くと、結局「やらんよりはマシ」の議論に戻りますね。
  • 教師がCFストラテジーのレパートリーをゲットして、いつどうやってそれを活動中に使えるか考えることがだいじ(p. 155)と言うのは簡単だが、それについてSLAが具体的に意味のあることを一個でも明らかにしてきただろうか。そういうところだよ。
  • “cited in Lantolf and Throne, 2007, p. 206” 訳本があるにもかかわらず、元の文献に当たりもしない不誠実さ。
  • Robinsonにもはや誰もついていか(け)ない仮説
  • Kim (2012)のdevelopmentの操作化が飲み込めないのと、最初に疑問文形成のStageを3としたとか4としたということの根拠がわからない。
第9章 文法にフォーカスしたコミュニケーション・タスクのデザイン
  • 前出の3つの立場でTBLTを一生懸命整理。文法指導どこいった?どの立場でもいいけど、特にinteractionistとsocioculturalの立場で、タスクに取り組むときにどういう文法知識が求められて、どういう形でそれが活用されるか、振り返ってを意義深く取り出されるか論じなければ、pedagogical grammarの議論は1ミリも進まん。cognitivistの立場は、まあいいや(繰り返しどころの話は大事ではある)。
  • Task-essentialness(これが教育上、有用かもしれない概念だとしても)のゆるさが気になる年頃。Muranoi (2000)の”a picture-description task to create obligatory contexts for the articles a/an and the” (p. 179)。4コマ描写が冠詞使用の義務的文脈を作っていると言えるだろうか?結束性はイラストで実現されてしまっているので、学習者から見れば、冠詞はなくても意味は通じる。この時、task-essentialnessとはなんなのか。強いて言えば、義務的なのは項構造だけではないのか(誰が殴ったのか、誰が殴られたのか)。本書が採用しているform-meaning-useの枠組みからちゃんと評価せーよ。
  • てか、Muranoiに依存しすぎじゃないの。
  • Fotos先生は嫌いではないのだが、あらためてクソさを感じざるを得ないEllisとFotosの教材(Figure 9.5)。なんなんこれ。
  • Task modelingが大事だとかいう話は単元を構想する際に先生がたには大事なメッセージを含んでいなくもないので、ここをもうちょっと文法指導の観点から詳述できれば…
  • この辺、こういう文献のほうがよっぽどいいかな、と思う。
第10章 コミュニケーション能力の枠組みにおける文法のアセスメント
  • 語用論と(狭義の)文法の関係については亘理(2008)[上掲拙博論]でやっつけておいたぞ。浅い。
    • E.g., Some → Not all
  • メタ言語知識の役割をもう少し詳しく論じるべき → Meritを論じよ(kusanagi)
  • BachmanらのTLUとかの議論してるけど、これまでの章(8章とか9章とか)でそれ、全然当てはめた議論してこなかったやん…
  • ACTFLのcommnunicative modeは有用(先生向けに)
第11章 今後の研究に向けた回顧と示唆
  • ざっくりのまとめと本書で詳しく触れなかった他の関連分野の雑な紹介のため略。