[本053] 柿原・仲・布尾・山下(編)『対抗する言語』

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ご恵投いただいた、

を読了。ずっしり重たくて、新しく知ることばかりだった。それは個別の事実にとどまらず、言語使用者の置かれ得る状況や言語に対する視点においても。

本書の意義は、第10章の「言語的弱者への見えにくい排外主義と対抗理論」(中島武史)に最もよく表れていると思う。本章だけでも、全国の教員養成課程や研修のどこかで受容され、真剣に検討される機会があって欲しい。蒙を啓かれるという意味では第5章「『対抗しない』アフリカ型多言語主義の可能性」(沓掛沙弥香)が非常に読み応えがあって興味深く、数年前に参加したサミットで聞いたウガンダの話なども想起しながら拝読した。

ただ全体として決して読みやすくはない。洋書以上にページを繰る手が進まない章もあり、読了までにかなりの時間を要した。さっと読み流すような文献ではなく、むしろじっくり遅読すべき本であるからそれで良いとも言えるのだが、私がさくさく読み進められなかった理由の一つには、個別の国や地域、その社会の言語や歴史の知識が不足していることがある。これは多くの読者にとってもおそらくそうで、仮にスペインや台湾の言語(教育)問題について多少知っていたとしても、それと同時にルクセンブルクやインドネシア、タンザニアについても詳しくて、アイオレオ語についても知っているという人はほとんどいないだろう。章によっては比較的丁寧に背景を解説してくれている章もあるが、それが不足していて話がスッと入ってこないと感じる章もあった。前書きで各章の解説は与えられているのだが、もっと積極的に見取り図を提示するか、途中で横断的に振り返ったまとめがあると良かったかもしれない。

それにしても、著者の一人の榎本さんには直接伝えたが、『流行に踊る日本の教育』の拙稿執筆時に本書に出会わなくてよかった(特に仲さんと榎本さんの章)。社会的パースペクティブにおいても歴史的パースペクティブにおいても私よりずっと広い考察が提示されており、読んだら影響を受けたこと必至だからだ。お互いの原稿について何らのやり取りもしておらず、学術的なバックグラウンドやアプローチも異なるのに、問題関心や危機意識が似通っていることに驚く。

拙稿はほとんど学校の授業に閉じた形で論じていて、批判的応用言語学の知見から見ればナイーブなところもあると自覚している。ただ、「政治的な側面を伴うローカルな社会的実践」(p. 287)として、榎本さんの言う通り、どちらかと言えば非エリートに向けた「考える市民」(p. 294)のための外国語科を作れない限り学校英語教育に先はないと思うし、現時点での授業論としての見解は拙稿に提示した。そうした方向において同志の存在がとても心強く、榎本さんや仲さんはこういう風に料理するのかと勉強になった。

拙稿が、自治体や学校が「踊って」しまう取り組みの端緒を政策的背景と英語教育史的から論じ、無闇な体験の羅列や「コミュニケーション」とされているものの有り様を問い直す視点を提示しているのに対して、仲さんは「教授法に対する無批判な信仰」(p. 268)が持ち得る権力性を指摘することで、同様に「かかわることば」の視点を導いている。仲さんが批判する実態も実感としてわかるし、各教授法をこれぐらい批判的に吟味する機会もあってよいので岐阜大の学生は幸せだなと思う一方で、私自身はハサミやトンカチとしての教授法それ自体にそれほど罪があるとは考えていない(どういう教え方にも功罪はあり、教授法に限らず「無批判な信仰」は何に対しても害が多い)。また、研修漬けの状況や各自治体での実施内容がそのままで良いとはもちろん思わないが、教員がキャリアを積んでいく過程で研修が不要だとは思わない(むしろ異なる形態や複数のレイヤーでの充実が必要)。小中高の授業で(特に自分が教え教職に就いた学生が)実際にどう授業を展開するかということや、養成・採用・研修のトータル・デザインをどういう風に考えているのかを一度とことん議論してみたい。

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