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ど真ん中で来られると書き難いもんだと思案していた上に、(クリーシェで恐縮だが)「忙しさにかまけて」投稿のタイミングを逸したら、じゃんじゃん投稿があり、フムフムうなずく記事もあればちょと待てよと思う記事もあり、さりとて理論・実践に関して後出しじゃんけんで好き勝手言っているみたいになるのはイヤだ、とまあ、この読み難い一文のように考えがまとまらずに逡巡していたここ数週間。

別件で読み進めている

  • ピーター・M・センゲ著、枝廣淳子ほか訳(2011)『学習する組織』英治出版

に、英文法教育(の研究)に関して思うところを端的に述べていると思える一節があった。

「メタノイア」の意味をつかむことは、「学習」のより深い意味をつかむことである。なぜなら、学習も認識の根本的な転換や変化を伴うからだ。「学習する組織」について語る場合の問題点は、現代の語法において「学習」という言葉の中心的な意味が失われていることだ。たいていの人は、「学習」や「学習する組織」について語りかけられると、その目をどんよりと曇らせる。この言葉はどちらかといえば、「教室に受身の姿勢で座り、耳を傾け、指示に従い、間違えないで先生を喜ばせる」というイメージをすぐに呼び起こす。実際、日常的な語法としての「学習」は「情報を取り込むこと」と同意語になった。「はい。昨日の研修でそのことについてはすべてを学習しました」というように。だが、「情報を取り込むこと」と、「真に学習すること」とは遠い親戚程度の関係だ。「サイクリングについてのすごくいい本をよんだところなんだ——サイクリングのことはばっちり学習したよ」という使い方はばかげている。

真の学習は、「人間であるとはどういうことか」という意味の核心に踏み込むものだ。学習を通じて、私たちは自分自身を再形成する。学習を通じて、以前には決してできなかったことができるようになる。学習を通じて、私たちは世界の認識を新たにし、世界と自分との関係をとらえ直す。学習を通じて、私たちは、自分の中にある想像する能力や、人生の生成プロセスの一部になる能力を伸ばす。私たち一人ひとりの中に、この種の学習に対する深い渇望があるのだ(p. 50)。

学習する組織の核心にあるのは、認識の変容である。自分自身が世界から切り離されているとする見方から、つながっているとする見方へ、問題は「外側の」誰かが何かが引き起こすものだと考えることから、いかに私たち自身の行動が自分の直面する問題を生み出しているのかに目を向けることへの変容だ。学習する組織は、「いかに私たちの行動が私たちの現実を生み出すか、そして私たちはいかにそれを変えられるか」ということを人々が継続的に発見し続ける場である。アルキメデスが「われに支点を与えよ。さらば片手で世界を動かさん」と言ったように(pp. 48-9)。

具体論でなくて恐縮なのだけれども、私は、英語の「文法を教える/学ぶ」ということを、もっと言えば学校教育の一環としての英語教育全般を、上述の意味で学習者の認識の根本的な転換や変化を伴う」もの、自分自身(の行動)とつながっていると思えるものにしたいと考えている。

もちろん既にそう呼ぶに相応しい授業を日々具現している先生方は多くいるのだけれども、文法学習の後に「活動」とか「コミュニケーション」なる「真の学び」があると考えるのではなくて、文法の教授=学習過程自体が「核心」の一つとなるようにしたいし、それは可能だというのが私の立場。その(広い意味での)環境づくり、授業づくりで英語教師(集団)と協働したい。

文法指導の要・不要論の振り子が要の方に戻ってきたのはいいけれど、(どの教科であれ)知的に楽しくない授業はイヤなのである。