[雑感060] 私の実践研究のスタンス

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この時期は特に、火曜水曜の授業日以外、ほぼ大学にいない。助言者・共同研究者として小中学校・高校の研究授業や協議会、研修会に参加しているからだ。各事業・各学校でその文脈は異なり、十把一絡げに論じることはできないのだが、私の実践研究のスタンスについて故あってつぶやいたので、こうしてまとめておくのもどこかで役に立つかもしれない、という記事。

小中学校・高校に訪問するにあたって、正直なところ「助言者」という扱いはいつも慣れないし、この言葉もあまり好きではない。偉そうに上から「助言」を垂れる高尚な存在でもなければ、現場の先生がたの「ヘルプ」をしているといった認識も私にはないからだ。

授業や(その担い手である)教師教育を対象とする限り、それについて全体状況をよく見てよく考えれば明白なことだが、諸々山積する課題は養成・採用・研修を分けてやっていれば解決する話でもなければ、現実はそんな悠長なこと言っていられる状況でもない。制度的・構造的な問題を根本から解決すべきという話、あるいはそのための研究と、現実の児童・先生・教委の要求に応えて、地域や授業の課題を一緒に解決しようとするプラクシスとは、どこかで繋がるとしても一応、別のことだ。例えば前の記事で紹介した取り組みは、この町の過疎化・高齢化の進行具合と教育条件(現状と今後の予想)を知れば、「このまま、正規の教員以外の(多くが英語指導について専門性を欠く)ALTやボランティア頼みで良いのだろうか!」などと安易な一般論にはとても回収できない。ある意味では、教科指導を通じた教育行政学的観点での実践といってもいいのかもしれない。

他方、私がこうした大学外の仕事を受ける条件はすべからく、ゼミ生および英語教育専修の学生(ひいては現在勤務する教育学部・静岡大学)のためになるかどうかである。学生を安価な単純労働力とみなしている(一方で、学校現場とコネクションができることを餌にする)ような「ヘルプ」の打診も今までに何度かあったが、そういう依頼は引き受けない。

つまり、そもそも私は、研究面においても教育面においても、単なる奉仕で学校に赴いているわけではないのである。

上述の取り組みはゼミ内でプロジェクト・チームを組織し、複数の院生・学生と進めているが、私はこの取り組みを「教員の卵」による現場の「ヘルプ」と思ってやってはいない。むしろ(正規のカリキュラムではなくゼミの取り組みであるとしても)教員養成課程の一環として、チームでの計画・準備から実践に至るまで、妥協も甘えの余地もなく現実の子ども・教員と対峙し、お互いに挑戦と提案と課題をぶつけ合うためにやっている。そして、それが今の養成・研修に欠けている、大事な過程を双方に生み出すものだと考えているのだ。現職の教員と比べて、教員養成課程在籍者に経験や専門性において劣る部分があるとしても、逆もまた然りで、一方的な非対称関係だとは思っていない。こういう実践の場合、少なくともそう私が思える水準にまでチームに責任を持って直接的・間接的に指導する(というよりゼミ生がそういう風に育ってくれている)。

確かに(場合によっては安易な)学生の「現場」への派遣は今後も増え続けるだろう。道東の学校に学生が支援に行くという取り組みは私が院生の頃から見聞きしていたし、勤務先でも、学校支援ボランティアと称する取り組みはやっていて、実態としては雑用係で学ぶこと少なしという声もたびたび学生から聞く。そういう「ヘルプ」にはもちろん私は反対だが、一方で現場の側で猫の手でも借りたい、「使えるものは何でも使うしかない」という希求があることを責める気にはならない。バカな大人たちのせいで戦争孤児となった子どもが生きるために盗みを働いたとしても責められないのと同じだ(現状は「インパール作戦」と揶揄されるくらいなのだから)。さらに、そういった事情に乗じてオリンピック・ボランティアのような悪だくみが進行している感もあるが、正統的周辺参加の考え方からすると、これまでの養成・採用・研修がブツ切りで交わりも特になかったことの方が不自然だと感じているので、私は先ほど述べたような考え方に至る。

大学教員としての私の役目は、そこで学生たちが搾取されてお終いにならないように護ることだが、そうやって学校や先生がたを生贄にしてバカなリーダーたちを責めている内に街が荒廃し、行き倒れとなる人が溢れてしまったら元も子もない。犠牲になるのは子どもであり、その子どもたち(の子どもたち)を将来教えるのが今私が送り出している学生たちなのである。したがって、いま現に公教育を担っている環境を護ること(もう少し前向きに言えば、より良いものにするための貢献をすること)も教育学者としての私の責務の一つであり、両者の矛盾に理念だけでなく実践を以って挑むことが肝要と考えている。それが教育方法学者としての私の実存的な在り方だと言えばいいだろうか(マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」を参照)。

それを「使えるものは何でも使うしかない」の類と同じ狢と見なされるのであれば仕方がないが、現実が全てなので、象牙の塔で無い袖を振って教育学者もどきを気取るよりはよっぽどマシだ。評価は現実が、実際の授業で現実の児童・生徒、そして先生がたが、下すだろう。そして私は今日も今日とて三重の高校に向かっているのであった。

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