[雑感061]「文法を学んで何になるのか」という疑問への答え方

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院生から拙博論*1に対するリクエストがあり、久しぶりにフォルダを開いたら「四章加筆候補」というファイルを見つけた。結局加筆はしなかったもので、その理由は失念してしまったが、おそらく論文本体に対するまとめの冒頭としては大仰な一般化だと思ったのだろう。戯れにそのまま公開してみる。


結局,多くの人が英語教育に対して漠然と抱いている疑問は「文法を学んで何になるのか」ということである。これは,英語教育に携わる者でさえ根っこでは払拭できずにいる疑問だと言えるかもしれない。

英語教師の多くは英語が「できる」。優れた文法研究の成果の恩恵に預かった者もいるだろうが,その多くは言わば「叩き上げ」で英語に関する諸能力を培ってきた。しかし,彼らが教える学習者全員に,それと同じプロセスを強要することはできない。そのとき周りでは,程度の差はあれ,「英文法を教える」という手段が必要なことは自明のこととされている。文法を静的な,つまり自分が習った古い文法や古い文法書に書いてある記述は永久に変わらないものと捉え,その意味に疑問を抱きながら文法を教える。英会話学校などが,次第に「自分たちと同じプロセスを辿ることが英語を身につける最短の方法」と考えるようになったとしても無理はないことだと言える。

一方で,英語学者や英語教育学者は,文法の必要性・有用性を自明視し過ぎているきらいがある。「理論か実用か」といった不毛な二元論をするつもりはない。しかし,英語学者は個別の事象,あるいは文法の体系が人間のコミュニケーションにとってどういう意味を持つのか,人間言語あるいは人間の認識のどういう特徴を反映しているのか,といったことについての説明をもっとしてもいいのではないだろうか。文法研究の成果を一般の人や言語教育に携わる者に還元する努力が様々な形でなされるべきである。言語学者の書いた文法解説書や教科書はその一つと言えるだろうが,その体系や構造をブラック・ボックスにしてしまっては意味がない。彼らが英語教育について何かを語るとき,われわれは「言語学者や英語学者ならではのmetaphysics」を期待しているのである。

そのように言語学者・英語学者の研究成果を分かりやすく翻訳する役目は,本来,英語教育学者(あるいは教育方法学者)に課せられているものである。ところが,言語学的研究の成果を摂取しようともせず,小手先の教授法の議論に終始している者が少なくない。彼らの多くも文法の恩恵に預かったり「叩き上げ」で諸能力を培ってきたりした人々だから,文法を不必要だと考えているわけではないだろう。しかし,全ての学習者が彼らと同じ「英語大好きっ子」だとは限らないのだ。遊園地やテーマ・パークがあの手この手で客を呼び込み,楽しませようとするのと同様に,英語教育学者はあの手この手で文法を学ぶことの面白さを伝える努力をしなければならない。まずは,英語教師に「それなら授業に取り入れてみようかな」とか「これは使えそうだ」と思わせなければならない。「あの手この手」と形容したが,それは小手先の教授法を意味しない。「どの方法が適切なのか」ということはその内容に応じて決まるからである。

結局,各人がそれぞれのレベルで「文法を学んで何になるのか」という疑問に対する答えを持っておかなければならないということである。そして,それは抽象的な実用性についての文言ではなく,具体的な教育内容・教材の形で示されるべきものである。つまり,英語学者は英文法の体系を明らかにし(欲を言えば,そこにメタ的な位置づけを与え),英語教育学者はその体系を教育内容として再構成して教材の形に具体化し,英語教師はそれをもとに面白い授業を展開する。まずは,学習者が「文法を学んで何になるのか」という疑問を抱く必要がないような授業を展開すること(もちろん「コレコレのために文法を学びます」などと説明するということではない),そして英語学者や英語教育学者はそれに寄与するような論を展開することが必要なのであって,本来「文法を学んで何になるのか」などということはその後で考えればよいことである。

本論は,この一連のサイクルの一端を担うべく,教育方法学の立場から,学校教育の一環としてのTEFLにおける比較表現の教育内容・教材構成を論じたものである(2008年1月22日)。


*1 亘理 陽一 (2008).『外国語としての英語の教育における文法的能力を形成する領域の教育内容構成に関する研究: 語用論的原理に基づく比較表現の指導』北海道大学博士学位論文.

10年前の謙虚さをなくしてしまった今となってはこれを公開することにそれほど躊躇いも覚えないが、今の自分がこういう内容と書くとしたら同じようには書かないだろう。しかし、10年経って上の内容が不要になったとは全然思わない。

並べてみると、この博論以降、文法指導について何もしていないわけでもはないと思うが、もっとがっつり上で述べているような意味での文法指導研究に没頭したいと思う今日この頃。

  • 亘理 陽一(2009b).「語用論的原理に基づく英語の量化表現の教育内容構成」『北海道大学大学院教育学研究院紀要』108, 99-114.
  • 亘理 陽一 (2012).「学習英文法を考える際の論点を整理する」大津由紀雄(編)『学習英文法を見直したい』(pp. 66–86) 東京: 研究社.
  • 亘理 陽一(2013c).「教育文法の構成原理に関する理論的考察」『中部地区英語教育学会紀要』42, 9-16.
  • 亘理 陽一(2013d).「その文法指導の中身が気になる:教育文法の質の実証的研究に向けた予備的考察」『外国語教育メディア学会(LET) 関西支部 メソドロジー研究部会 2012年度報告論集』129-141.
  • Watari, Y. (2013) “What do you mean by “explicit”? A methodological consideration in explicit grammar teaching research.” BAAL 2013 Conference (46th Annual Meeting of the British Association for Applied Linguistics: The Impact of Applied Linguistics) (Heriot-Watt University, Edinburgh)
  • Watari, Y. (2014) “What does ‘explicit’€ mean? A methodological consideration in explicit grammar teaching research” AILA World Congress 2014 (Brisbane, Australia)
  • Watari, Y., & Mizushima, L. (2016). A reexamination of meta-analyses of explicit grammar teaching research from pedagogical perspectives. The 35th Second Language Research Forum 2016 (New York, Teachers College, Columbia University)
  • Watari, Y. (2017). Pedagogical grammar: A theoretical background from the perspective of applied linguistics. In A. Tajino (Ed.), A new approach to English pedagogical grammar: The order of meanings (pp. 39–50). New York, NY: Routledge.
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