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[レビュー050][ゼミ]『現代学校と人格発達』(その2)

[レビュー050][ゼミ]『現代学校と人格発達』(その2)

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2週間ぶりのゼミで『現代学校と人格発達』の「第1章 子ども観と教育的関係」を検討した。ただ解説してしまうのも面白くないので、(私の視点で)ゼミの雰囲気をいくらか再現する形でまとめてみよう。

本章で窪島は、「80年代はじめの子ども論」を、

  • A. 反発達論的な心情に傾斜した子ども論
  • B. 想像力の原点としての子ども論
  • C. 大人と同質の存在としての子ども論

の3つに類型化し、パターナリズム(家父長的子ども観)から「過保護」に傾斜しやすいA、Bの一方で、その批判としてのCにも、子どもの発達の過程や彼らの固有の権利を豊かなものとすること、あるいはそのための大人の関わりが等閑視される危うさを指摘している。

ここで窪島は子どもの人権論に議論を進め、「『子どもの人権』は、いわば語の優れた意味での『保護』とかみあってはじめて、子どもを実質的に独立と責任の主体へと導く条件となりうるのではないか」(p. 62)という法学者・森田明の言葉を引き、この指摘が重要だとしている。さて、「語の優れた意味での『保護』」とは何を意味し、具体的にはどういったことが考え得るだろうか。

昨日のゼミでは、子どもの権利条約の生きる権利・育つ権利・守られる権利・参加する権利に照らしつつ、『14歳の栞』のエピソードなどを交えて議論が展開された。

本章ではさらに、教師と児童・生徒の関係をめぐって、尾関周二の「主体-主体関係」論が紹介される。尾関の論を批判しているというより、(1)子どもを「主体」扱いしながらA、Bの枠内でしかないような、秩序への適応を隠し持った表面的主体論と、(2)Cの立場における、双方が意図する教授・学習内容の牧歌的調和が前提とされた主体論を批判するために、その中でも「もっとも慎重で多方面に目くばりのきいたもの」(p. 68)として尾関氏の論が紹介されている(しかし増補版の尾関, 2002の反論を読む限り、両者の議論は平行線で、お互いに「分かっちゃいない」という調子のまま終わっているのは残念なところ)。

ファシリテーションとかアクティブ・ラーニングといった言葉が踊る前の文献にもかかわらず、論じられていることはその問題そのものだと言える。今の視点から見れば、教師と児童・生徒の関係を「主体-主体」として捉えることのアドバンテージは理解しやすいし、窪島の(2)の指摘を読めばそのリスクにも気づくことができる。他方、教師と児童・生徒の関係を「主体-客体」と捉えることのリスクやデメリットについては、解説不要なくらい参加者全員が思い当たる経験を持っている。さらに窪島の、「『どの子にもわかる授業』には、子どもを知識のうけ手として受動的に見る傾向がある」という川合章氏のかつての指摘(p. 63)を読むと、わかりやすく発揮された管理主義的統制以外にも問題が潜んでいることがわかる。しかし、「主体-客体」関係の(学校教育における)アドバンテージについてはどうだろうか。本章の眼目はここにあると言ってもいいだろう。考えてみてほしい。

ゼミ生が鋭く指摘した通り、窪島は二宮厚美の論を引いて、「教師と子どもとの人格的平等性を前提としつつも、教える人としての教師、学ぶ人としての子どもという差異の相互承認と相互の発達を共受する能力の相互発達という実質的平等の二重の関係の統一においてとらえられるべきもの」(p. 82)と本章を結んでおり、子どもが主体となることを否定しているわけではもちろんない。しかし窪島は、(2)で批判しているように、そうした関係が予定調和的に最初から成立するものとは考えていない。つまり、「管理もはじめの外的な性格からしだいに子どもたちの集団的な自己管理、自治に移管されていくべき内容をふくんでいる。しかし、これらは管理の名でよばれるようにまさに統制的性格の機能であり、近代学校の社会的意義は科学的知識の伝達にあるよりは、この統制機能にあるとみる人もいる。学校がこの機能をもつことが良いか悪いかではなく、この機能を教育がおおかれすくなかれもつことが必然であることを理解し、むしろこのことをはっきり自覚して学校教育の事実的機能をつねに見すえることがたいせつなのである」(p. 73)。

私にはこうした議論こそが検討に値する教育的価値論であり、教育学の存在意義に触れるものであるように思われる。さらに窪島に言わせれば、「子どもの学習がおこなわれる場面の構造、具体的な条件を構成する教師の活動を捨象し」たり、「学習に先行し、随伴し、また後行して子どもに直接向けられる教師の指導にふくまれる活動に注意をむけていない」学習論や授業論は、教育的関係の実態を捉えることができず、内的構造も明らかにしない上っ面の「主体-主体」関係論ということになるだろう(p. 72)。

昨日のゼミでは最後に、80年代の「共生・共育としての保育」といった聞こえの良いスローガンに対する窪島の批判を受け、では仮にそれが実際に成り立つ、あるいは障害を持つ子どもやその保護者にとってもメリットがあるような状況があり得るとして、そこで当事者にとって満足されるのは、参考文献の二宮が言うところの①豊かな目的・目標の追求なのか②社会的存在感の確証なのかということを議論した。

2 thoughts on “[レビュー050][ゼミ]『現代学校と人格発達』(その2)

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      どんな場面で子どもに主体性が生まれるんだろうか?と思っておりましたが、教師と生徒、生徒と生徒の対話が生まれる構造を思い出してみると、生徒たちだけで、議論をする傍らで、私がフンフンうなづきながら、最後に私見を述べるくらいの方が議論そのものに価値を見出し、また話したい、意見を聞いてもらいたいってなってた気がします。亘理先生のゼミでは、ゼミ生の議論が活発に交わされていて、議論そのものが、おもしろそだなと思ってしまいました。
      美容院の待ち時間に、ちょっと読ませてもらって、コメントしてみました。
      また、勉強会でよろしくお願いいたします。

      兵庫県で働いている大山より

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        大山先生、遅くなりましたが、コメントありがとうございます。そうですね、先生のおっしゃる通り、私がなるべく背景に退いているのが良い回だと思います。文献はひとりで読むには難しく、補足もあって欲しいと学生が思う文献なので、ちょいちょい補助線を足したり出てきた意見を整理したりする司会役を(オンラインの場合は特に意識して)務めていますが、メンバーや内容によっては司会も任せてきました。良いゼミ生に恵まれました。

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