レビュー
[レビュー070] 江利川『英語教育論争史』

[レビュー070] 江利川『英語教育論争史』

Pocket

いただきもの。遅ればせながら年末年始に拝読した。

本書の刊行の意義は小さくない。「英語教育史」と言うと(英語教育自体はそうでもないが「史」がつくと)敷居が高く、(時代を遡れば遡るほど)図書館で分厚い資料と向き合わなければならないイメージがつきまとう*1。しかし本書によって、明治期から平成期までの英語教育をめぐる論争の歴史が選書メチエのハンディさで読める

日本の外国語教育政策の通史としては、著者の

があるものの、8,200円+税の専門書を手に取る人はそれほど多くないだろう。制度の変遷については当然ながらこちらのほうが詳しいものの、例えば、江利川 (2018)では論争の概略を示して鳥飼 (2014)を挙げるにとどまっていた平泉・渡部論争については、本書のほうが詳細に論点を整理していて、何が論じられていたのかを把握しやすい。他にも、敗戦直後の「英会話ブーム」時の議論なども、江利川 (2018)より立体的に描かれていて動向をイメージしやすい。

もちろんこれまでも、斎藤兆史(『日本人と英語: もうひとつの英語百年史』など)が日本における英語の受容史を平易に解説してきたし、鳥飼玖美子が上述の文献(『英語教育論争から考える』)で直接に本書の主題を扱っている。しかし、受容史は必ずしも教育の議論に限られたものではないし、鳥飼 (2014)は主として平泉・渡部論争を取り上げ、それ以降の動向を扱ったもので、本書のような論争の歴史を辿ったものではない*2。

本書全体を通じて、学習開始時期、訳読と会話、必修・選択といった対立軸について(実際はこうした二項対立の間に時代ごとの様々な差異があり、論争史として整理される過程で丸められている細部があるとしても)、どちらの側にせよ主要な論点は明治の昔から出尽くしていて、今に至るまで同じ議論を繰り返しているということがよく分かる。「だから、謙虚に歴史に学ぼう」というのが著者の主張である。尤もなことだ。

私自身、若い頃に新しい意見だと思ったり自分が思いついたかのように書いたりしたことが、戦後はおろか、明治・大正期に既に交わされた議論であることを文言レベルで確認することになった。だからダメということはなく、昔も今も重要な問題だということじゃないか!と先人のサポートと捉えることもできるのだが、踏まえていればもっと別の書き方ができた(し、過去に学ばずイキっていたのがカッコ悪い)し、先の提案もできたかもしれない。全ての人に本書の通読を求めることは難しいかもしれないが、少なくとも英語教育を専門的に学ぶ課程では、どこかで本書を経ておくことが望ましい。そういう選択科目を置いていなければ、英語科教育法の中で触れることになろうか。部分的にであれ、被教育経験に基づくそれぞれの対立軸への素朴な意見からスタートして、過去に示された論点を本書で参照するのも有益だろう。

ただその際、各時代や対立軸ごとに、どういうレベルや段階で議論されているのか(例えば学習指導要領の改訂のようなレベルの議論なのか、各地域・学校での制度運用レベルの議論なのか、制度改正に向けた理念の提示なのか制度改正後の実態からの陳情や不満の表出なのか等)や、当該人物が論争に関してどういう位置を占めるアクターなのか(制度や実践に何らかの影響力を持ちうる立場[例えば中教審委員など]での見解の提示なのか、研究者界隈に向けた学術的主張なのか、パブリック・オピニオン的意見表明なのか等)、主張が展開された資料の位置づけ(どういう層に、どういう影響力を持つ媒体だったのか)などの補足が必要となる。これが簡単ではないし、本書の第2、3章では必ずしも十分に得られないと感じたところだ。論争の中心人物については掘り下げた記述があるし、3点目については発行部数でインパクトの大きさが示されたりもしているが、次々に出てくる人物間の関係や固有名詞、社会背景をつなぐだけの知識がないと、論争の布置を十分立体的に捉えることは難しい。

例えば、細かいところで城戸幡太郎が法政大学教授の心理学者・教育学者として紹介されている(p. 135)*3。確かに1938年時点でそうだったことに違いはないが、それだけで、彼が何者で、当該シンポジウムの提案者となり、記載されているような主張をしたかを読者が理解することは難しいだろう。城戸は岩波講座の編集を務めた過去があり、当該雑誌『教育』を創刊した立場の人物であり、これは、前年に彼が教育科学研究会を発足させた後の、準機関紙としての位置づけでの誌上シンポジウムである。少なくとも、当時の城戸がどういう位置を占める教育学者であったか(、さらには翼賛体制のことや、戦後の城戸の経歴など)を知らないと彼の主張に対する評価ができない。その一ヶ月後に藤村作が「中学英語科全廃論」を発表したという『文藝春秋』は当時、『教育』と比べて、どういう層に読まれ、どの程度のインパクトがあったのだろうか。こうしたことがつかめないと(実際、私にはつかめていないのだが)、この一冊で「そういうことを言っていた人たちがいた」以上のことが必ずしも読み解けるわけではない。

そういう課題が残されているとは言え、本書が読み流されて終わらないよう以下の点を指摘しておきたい。

学習開始学年の議論にしろ授業時数や必修・選択の議論にしろ、英語教育の「論争」は、畢竟、公教育における権力の行使とその内容の是非に関わるものである。保護者が小学生の子弟を英会話教室に通わせるのも、昔で言えばラジオの「カムカム英語」で一生懸命学ぼうとするのも(さしあたり)私教育の領域に属することで、英語(教育)の社会的な側面として間接的な影響があり得るとはいえ、それについて「有識者」が何かを書いたとしても一個人の感想の表明でしかない。そこに公金が支出されるということになるのでもない限り、個人の行動が制限・促進されるわけでもない。他方、全国一律に小学校5年から外国語を必修として課すかどうかは、本人や保護者が望むかどうかによらず影響を与えるわけだから、まさに公権力の行使に関わるものである。その強制がどういう論理で正当化され、誰にどういうメリットとデメリットがあり、メリットの実現コストの負担がどう担保されるかということなのだ(逆に言えば、東京都のESAT-Jの問題のように、その結果やそこに至る民主的プロセスに瑕疵があれば、批判され正されなければならない)。

各論者がどの程度その意識を持って主張を交わしていたかはわからないが、本書の論争は(指導法に関する議論は性格が異なるが、「論争」として扱うのであれば指導法の議論も)全て、その視点で妥当性が比較衡量されるべきであり、不毛に終わった論争や望まない結果となった点については、公教育に関わる議論として、どういう要因が見過ごされたり誤って認識されたりしていたかを検証すべきである。同じ論争が繰り返されるとすれば、以前の議論が踏まえられない構造的、ないしは社会的要因を検討していかなければならない

大修館書店『英語教育』2023年1月号に本書のレビュー記事が掲載されているが、本書から考えるべきことは上記のようなことで、一個人の学習歴は(それがどのようなものであれ)公教育における権力の行使に関する議論に安易に重ねるべきではないし、たとえ「英語の授業は英語で」のような指導法に関する論点であっても、(そのような指導法が一定の支持を得る理由は)「学習者の側に、そもそも本気で英語を習得する意思がないからだ」といった個人に矮小化した心理主義的な敷衍をすべきではない。そんな議論を重ねても、公教育としての英語教育の「論争」は一歩も前に進まないだろう。読み方に注意し、上述の意味で批判的に読まれたい。

 

*1 この立場になると、例えば

など、大変ありがたい文献だとしみじみ思うのではあるが。

*2 尤も、英語必修化の歴史をたどりながら、英語教育の目的を考察した

があり、本書に登場する資料のいくつかも詳しく検討されているので、日本の英語教育の歴史に興味があれば先ずこちらをしっかり読むべし、とも言える。当WebページのBook List for English Teachersでは寺沢 (2014)の歯応えを★3つにしているが、江利川 (2022)は★2つというところだろうか(分野への馴染みにも依る)。しかし順序としては、寺沢 (2014)を先に読んだほうが良いように思う。

*3 なぜ城戸幡太郎について多少詳しいかと言えば、彼が戦後、私の母校の北大教育学部創設に関わり、事実上の初代学部長で、学生の頃からその名に親しんできた人物であり、『教育科学七十年』などを読んで、彼が夏目漱石の『坊ちゃん』に出てくる「山城屋」のモデルになった「城戸屋」の息子であ(り、本人の回顧によれば、松山中で「山嵐」に教わってい)ることまで知っていて、後輩が彼の戦前・戦後の思想を研究しているからである。

1 thought on “[レビュー070] 江利川『英語教育論争史』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です