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[雑感131]「机間」のアフォーダンス

[雑感131]「机間」のアフォーダンス

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私の授業を聴講したある先生から、グループワークなどで巡回するとき、どうしても「教師が見張りにきた」、「教師が活動内容を評価しにきた」と思わせてしまうような、空気を作ってしまうようなのだが、生徒が困っていることを拾い上げ、共有したほうが良いことは共有するんだよ、支援するために回っているんだよ、という空気に変えるのに何かコツはあるか、という質問を受けた。その先生曰く、私が、授業中に写真をとりながら回っているのは、写真そのものの他に、何気なく、学生たちの様子や会話を見聞きするための、秘策となっているのだろうか、と。

確かに私は、授業中、カメラを片手に授業風景や活動の様子を写真に撮ってまわっている。ただ、これは主としてコロナ禍の産物だ。卒業の時に(学生がアルバムや記念動画を作ろうと思った際に)、大学時代の写真が(少)ない涙ということにならぬよう、充実していた時間の姿を少しでも切り取っておいてあげよう思って(お金のかかる趣味だから手を出すまいと思っていたカメラを購入して)始めたものだ。
ただ、教職科目で、発表や模擬授業中に自分がどういう表情や姿勢で話しているかをあとで振り返る機会はあったほうがいいだろうと思って、コロナ禍以前からスマホで撮影・共有することはそれなりにあった(ペアやグループの様子をひととおり撮っておけば、欠席者や、今日は誰と誰が組んだのかの確認も後で視覚的にできるという動機もあり)。また、なるべく教卓にばかり張り付いていることのないよう、教室内を歩き回るタイプだが、それは、どちらかと言えば教壇と座席の構図がもたらす「教える側と学習者の権力関係」のようなものを少しでも壊したいという意図によるものだ。

私は、程度の差はあれ、児童・生徒・学生が、教師を含む大人の「監視」の目を意識してしまうのは避けようがないことかなと思っている。児童・生徒・学生との関係形成に近道はなく、やはり普段から近い距離で話を聞いてあげたり、話をしてあげたり、信頼関係を醸成しておくことが鍵と答えるより他ないのではないか。そして、ペア・グループワークの際に、私が見に来たことによって学生がしゃんとする(ことによって活動が実質化する)のであれば、学生が「亘理が見張りにきた」と感じる部分があってもそれはそれとして構わないと考えている。そうであっても様子を見、会話や記述を拾って共有すべきはすることによって、「ただ『見張り』に来ただけではない」と感じてもらえたら。

と言語化して回答したが、実のところ、私は教育内容(研究)を基軸とする教育方法学者なので、授業中に学習者がどう感じているかをコントロールするということにあまり関心がない。もちろん授業の内容や活動について自分の頭で考え、多くを感じ、他者と楽しんだり悩んだりして欲しいと思ってはいるが、それは教育内容と教材の構成が規定することで、授業中に何をどう感じるかは結局のところ学生の自由に属する問題だと思うからだ。それによるアフォーダンスが、聴講生の先生に冒頭の質問をさせるのかな?と改めて考えた。

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