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昨年11月の第58回静岡大学附属島田中学教育研究発表会で配布された「英語科授業案&実践資料」に寄稿した文章が出て来ましたので,ここに載せておきます。

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学習における自己評価の有効性と展望

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評価は教師を最も悩ませることの一つである。第一に評価は難しい。生徒の知識・技能,そしてその成長を数値だけで示すには何かを捨象しなければならない。たかし君とめぐみさんに同じ5を付けたとしても,その意味は当然ながら違う。その質を言葉で表現したとしても,評価者の観点が生徒や保護者に伝わるものになっているか,そもそも伝わり得るものなのか悩みは尽きない。

第二に,評価はその苦労に見合う見返りを滅多にくれない。評価には時間がかかる。評価を行う材料を収集・吟味し,まとめて返す過程に要する労力は膨大だ。良心的な教師ほど得られたデータを余すことなく活かそう,公平な評価をしようと苦心する。そもそも生徒一人ひとりの成長が同じ傾きの一次直線である保証などなく,評価に適切なタイミングがいつで,何をもって「伸びた」と判断するか,禅問答のような問いに辛抱強く向き合っていくしかない。しかし,往々にして生徒や保護者にとっては表面に見える点数や評定が全てであり,そこに至るまでの評価者の労力が正当に評価されることは殆どない。

「自己評価」は,それに対するバラ色の解決策ではない。むしろ,従来の評価観の転換を伴って,教師たちに新しい挑戦を要求するものである。だが,間違いなくやりがいと稔りのある挑戦だ。

「生徒が自らやお互いを評価」と聞くと,「評価」は教師がするものであって,学習者が評価をしても無駄だと考える人もいるかもしれない。しかし,教師が自分なりの目標を持って授業や生徒指導を行っているのと同様に,生徒には生徒の目標がある。評価はその目標に対して存在するのであって,教師が一方的に出来不出来の判断を下すためにあるのではない。「学習者は意味のある選択の機会を与えられることでやる気を出すのである。やる気があるから選択をするのではない。学習者にとって意味のある選択の機会を提供するには,教師は,選択の幅と質を整え,学習者を選択できる状況に導いていかなくてはならない」(青木・中田(編), 2011, p.10)。この点で,自己評価は学習者の動機づけと密接につながっている。

教育における評価の究極的な目標は,逆説的だが,評価する必要がなくなることだと言える。英語科の授業は長い英語学習の過程のごく一部を占めるに過ぎない。だとすればわれわれは,生徒に「自分で自分を教え評価していく力」を獲得させるよう努めなければならない。それこそが英語教育が目指すべき自律した学習者の姿であるはずである。

「自律した学習者」とは,学習管理・認知プロセス・学習内容という相互に関連する3つの次元において自分の学習をコントロールできる学習者である(Benson, 2011, p.61)。「学習管理」には,「学習の目的を決めたり,学習のために取る方法や学習のために必要な技術を選択したり,学習のペースや学習時間をモニターしたり,学習を評価したりすること」が含まれる(大学英語教育学会学習ストラテジー研究会(編), 2006, p.17)。もちろんそこを目指す過程で教師が担うべき役割はたくさんあり,自己評価の実践は全てを生徒任せにすることを意味しない。自分のパフォーマンスや知識の現状を正しく評価することは,ある意味で他人を評価するより難しい。だからこそ評価する眼と方法を粘り強く鍛えていく必要がある。それがまた他者とのかかわりを柔軟で奥行きのあるものにすることにつながっていくだろう。自律的学習者の自己評価による成長の実感は,全てを自分一人で完璧に行えるかどうかではなく,自分の立てた目標と評価が互いに尊重され,自分の意志で他人の助けを得ながら行動できるかどうかにあるはずだからだ。

参考文献

  • 青木直子・中田賀之(編)(2011)『学習者オートノミー』東京:ひつじ書房
  • Benson, P. (2011). Teaching and researching autonomy (2nd ed.). Harlow: Pearson Education.
  • 大学英語教育学会学習ストラテジー研究会(編)(2006)『英語教師のための「学習ストラテジー」ハンドブック』東京:大修館書店

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