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[雑感134] Biesta (2022)の「所与性」の議論から

[雑感134] Biesta (2022)の「所与性」の議論から

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日本教育学会研究推進委員の1人として、この委員会の企画「日本教育学会連続セミナー『教育学を創る』第1回小玉重夫氏」に参加した。その延長でのメモ。

所収のBiesta, G. (2022). On the givenness of teaching: encountering the educational phenomenonにおいて教育の「所与性」を考察する中で、ビースタは、学習化に抗する視点として3つを挙げている。

(1)学習者が求め(られるとさえ知ら)なかったことを与えるものだということ、(2)(内容の正しさと同時にその分かり方の諸条件も与えるという意味で)二重の事実を伝えるものだということ、(3)自己はすでにそこにあるということ。やや意訳だが。ビースタによれば、(1)と(2)は資格化・社会化の議論に属する問題で、(3)が主体化(subjectification)の問題。昨日の議論の一部はここにフォーカスが当たっていたが、ビースタも、ここではexistenceが重要なのであって、subject-nessは、在り方の問題として理解されるものと断っている。

「つまり、教育的ダイナミクスとしての主体化は、心理的・社会的・神経学的成長、あるいは文化化やcultivationといったこととは関係がない。(中略)我々とっての主体のあり方の問題は、who we becomeについてではなく、who we have becomeとして何をするかについてのものなのだ」(p. 19)。要するに、ビースタにとっても主体性は実存的あり方の問題で(このあと英語のeducationとドイツ語のBildungとErziehungの区別の議論を引いているのだが、それは端折って)、subject-nessは、内側・外側といった次元で構成されるものではなく、自己が所与のものだという問題への応答に存する、と。

「主体化」云々って、所与の自己を生かすも殺すもそれにどう応じようとするか次第ということで、本人の問題というより、周囲の(主に大人たちの)問題だよねというのが、ある意味で自明だったけど、ビースタからの私の読み取り。そう受け取ると、「主体性」だの「エージェンシー」だのの大半は、大人にとって都合のいい存在(になってくれという願望)を聞こえのいい言葉で糊塗しているだけで、教育学的には、subject-nessの議論は、教育する側の懐の深さと遊び心の話と言っちゃったほうが私にとってはわかりやすい(ビースタは別のところで再帰的エージェントが織りなす開放系としての教育という捉え方をしているので、ビースタが何を言っているのかということの吟味は別途必要だけれども)。

そういうこともひっくるめて、子どもたちの自主性にまかす部分を拡大すればいいということではなく、先行する世代が「私たちはこれがいい(わるい)もの/やり方だと思うんだけど、どうかな」と子どもたちに提示し対話していく営みという神代さんの捉え方に私も共感するのだった。

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