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[雑感145] 外国語ワーキンググループ(第1回)で話したこと

[雑感145] 外国語ワーキンググループ(第1回)で話したこと

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このたび、中教審初等中等教育分科会の専門委員を拝命することになった。外国語ワーキンググループの一員を務める。

9月24日に開催された第1回では、資料に基づいて外国語に関する現状・課題と検討事項が説明され、次期指導要領に向けて各委員が自身の意見を述べた。

私は「わたり」という苗字ゆえ、名簿の最後に位置し、発言が回ってきたのは最後だった(のは背負ってきた名前の宿命だぜと思いつつ、時間的に余裕があったこともあり、後ろを気にせず比較的長く話すことができたのは名前のおかげである)。私は、前の委員の発言と重ねつつ以下の3つについて述べた。この記事はその整理を兼ねた記録である。

  1. 思考・判断・表現と知識・技能の接続の問題
  2. 「論理・表現」の位置づけ、というよりは「英コミュ」と「論・表」の関係
  3. 「中間指導」や「フィードバック」の定型化問題

1つ目は、教育課程特別部会の論点整理で提示されている「ヨコの関係」への懸念で、教えたことをすぐさま「どう使うか」と考えてしまう、あるいは「何ができるか」のために新しいことを教えて使わせるという関係で捉えてしまうのは、外国語の場合、特に問題が大きいということである。

上記の発言時は、「誘う」という言語の働き(言語行為)を例に説明をした。相手を何かのイベントに「誘う」ことが求められる言語活動において、小中高を通じてLet’s一辺倒というのはおかしい。その前後にどういう言葉を付け加えたり、どういう状況や関係性に基づいてLet’s …という表現が自身のレパートリーから選択されるのか。場合によっては、もっと間接的な誘い方を選んだ方がよいと判断し、Let’s …という表現自体、使用しないかもしれない。そういう具合に、外国語の思考・判断・表現と知識・技能それぞれの深まりに関する時間的特性(タテの関係の問題と捉えてもいいのかもしれないが)を加味した上で、両者の関係を立体的に捉えられるような「言語の働きに関する事項」の見直しと指導要領上の構成が必要だろう、ということだ。

そして時間的特性(すなわち、外国語の運用に関わる諸能力の一様ではない習熟の過程)に関わって、それを小中高の接続の問題として捉えられるとよいということも指摘した。どの学校段階でも「自己紹介」を行うように、「誘う」言語活動は小学校でしか行わない、などということは無いのだから、中・高で、それまでにしてきた類似の言語活動の経験に何を付け加えられるか、あるいは以前にした経験との目的・場面・状況の違いをどう捉えて自らの言語資源を駆使・拡張しようとするかという観点が求められる。その時々で誘い方は異なるとしても、「誘う」ということでは繋がっているはずだし、学校段階が進み経験が増えるにつれて「誘う」ということの認識が深まっていく。それこそが「言語の働き」で括られていることの意義だろう。それゆえ、小・中学校の先生に「高校段階ではこういうことまでやる」ということが見通せるとよく、「いま自分たちはその入り口や手前でこういうことに取り組んでいる」という意識を持てるようなデザインだとよいということを述べた*1。

「言語の働きに関する事項」の見直しについては、大修館書店『英語教育』2025年1月号の特集「先取りパブリック・コメント」の記事にも書いたのだが、同じ記事で指摘した「『その課で導入した言語材料をすぐ使わせようとしてしまう問題』、さらに『それを減点法で評価してしまう問題』」も同様に、思考・判断・表現と知識・技能の「ヨコの関係」の捉え方への懸念を表している。この記事にある通り、例えば3単現-sを導入する単元でそれを「正しく」使うことを求めるよりも、「むしろ期待したいのはそれまでに学習してきた事項(動詞のバリエーションやbe動詞や代名詞)の活用」であり、「とはいえ習ったことを活用したいという気持ちは生徒にもあるので、3単現-sが一度でも使えていたら(評価に加えるかフィードバックでの価値づけに止めるかは別として)喜んでいいのではないか」。第1回開催日の午後に授業づくりセミナーの仕事があり、そこで拝見した中1の授業がちょうど、3単現-sを学んだところで、学校の先生を互いに紹介する言語活動を行なっていた。実際に生徒たちは、be動詞を抜かしたり代名詞の格(sheなのかherなのかといったこと)で混乱したりする姿を見せてくれ、(単元途中で内容面にもっと重きをおいた方がよいということもあり)この段階では3単現-sを正しく使えているかどうかよりも見るべきことが他にあるという認識が、この地域の先生方には浸透していて心強く思った次第。

2つ目は、少なくない学校で、「論理・表現」がもっぱら文法・語彙指導を中心とする学習活動に当てられている実態について。それ自体は、私が高校生の頃の「オーラル・コミュニケーション」から変わらない話であり、「英語表現」でもたくさん観てきた光景で、それを受けてきた学生たちもよく口にすることである。ただ、それが並行して参加している「英語コミュニケーション」での言語受容・産出経験を通じて生じたモヤモヤの整理として機能しているのであれば、一つのカリキュラム・マネジメントのあり方として否定することでもないと思う(重要なのはその「質」だ)。これは発言時には言及できなかったが、「英語コミュニケーション」も「論理・表現」も言語活動一辺倒で、たくさんのパフォーマンス・テストを行うことが本当に適切かどうか、言語活動一元論的なカリキュラムの苦しさを理解した上でよくよく考えなければならない。

ただ、仮にそうしたカリマネの意図なく、「論理・表現」が文法・語彙指導の場となっている場合は、言語教育観自体に再考の余地がある。生徒のメタ言語意識が耕され、知的に触発されるような「知湧き肉踊る」文法指導をやってくれているのであれば個人的には歓迎したいものの、ほとんどの場合はそうではない。私が気になるのは教える側がどうしてそういう授業を選ぶのかというところで、そこには、とにかくたくさん詰め込んで、少しでも覚えさせようとする(ことが有効だという)教育・学習観があるのではないか。それは言わば、本人が何を食べたいか、どのくらい食べれるか、食べたいかということに関係なく、とにかくたくさん食べさせて体重を増やそうとするようなものだ。少なくとも私は、高校に限らず、外国語の教育・学習の過程が、団欒としての食事や健康管理のためにどのような献立を立案・調理できるかを教師と児童・生徒で考え、取り組んでいくものであって欲しいと考えている。

とにかく詰め込んで歩留まりを期待するという考え方の背後には、(近代的なstandardaized educationの特徴とされる)画一的な製品を生産するような教育・学習観があるだけでなく、SLAの「インプット理論」なども陰に陽に加担している、あるいは現在進行形で加担する可能性があると私は見ている。「論理・表現」にはそうした過去の(負の)遺産が色濃く反映されているという点で、「論理・表現」問題の解決は、日本の外国語教育全体や学校教育全体の解決につながっている、と思うのだ。

3つ目は、特に最近気になっていることで、「中間指導」や「フィードバック」という言葉が小中高の先生方にかなりの程度浸透した反面で、その内容があらかじめ指導案上で決められている実態があることへの違和感を述べた。言語活動を通してつけてもらいたい力(ねらい)に照らして、児童・生徒がこういうあらわれを見せるのではないかという予期は可能だし、した方が良いことだとしても、「中間でこの内容を指導する」と予め決めたことを児童・生徒が欲するとは限らない。

実際、内容面・言語面で、例えば紹介する事物を「詳しく説明する」ことや、「そのために関係代名詞節が使える」ことを中間で指導すると決められている授業がどういう展開になるかと言えば、「詳しく説明する」という内容構成上の視点やその方法は半ば誘導的なものとなり、生徒は教師に忖度をしてそれに向かおうとする。教師は言語活動の目的につなげた形で関係代名詞節を説明するが、大半の生徒は全く別の表現をどう英語で表すかを考えていて説明は届かない。あるいはこちらも、教師の意図を汲んで、必要のないところに無理に関係代名詞節を足そうとする。これは、今まで活動の前後にやり過ぎだった説明を砕いて途中に置いただけで、「中間指導」や「フィードバック」という言葉が本来意図しているい意味合いとも全く異なるものだろう。

現行指導要領(解説)が書き過ぎであるが故にこういう実態がもたらされているのか、逆に行間を書かな過ぎで、定型化した中間指導やフィードバックが生まれるのかはわからないが、どういう展開になるかを予め決められないはずの「話すこと[やり取り]」の指導において特に、こうした中間指導・フィードバックの定型化の問題が深刻な形で現れる。それは言語活動の装いをしたパターン・プラクティスと紙一重だ。ゆえに、CEFR CVにあるように、「やり取り」はreception, production, mediationと区別した(spoken/written) interactionとして独立させ、その特徴を捉えた扱いをした方が良いのではないかと述べた。私の関心は、コミュニケーションを歪めて児童・生徒の心を殺す「言語活動の装いをしたパターン・プラクティス」の撲滅(パタプラはパタプラとして納得の上でやってください)にあるのだが、何かと(生成)AIへの言及があったので、「それを活用した指導を考える上でも重要だ」と補足したのは、この問題について少しでも他の委員の関心を引けばいいと願ってのことである。

それ以外に発言の機会があった時間に、論点整理では基盤となる考え方として「実現可能性の確保」(feasibility)ということが挙げられていることに鑑みて、AIの活用について、(外国語教育におけるその可能性をあれこれ議論するのは構わないが)「誰がその費用を負担するのか」という問題を提起しておいた。与えられた環境で、できる限り私らしさを発揮していきたいと思う。

 

*1 関連して、言語活動の宛先、伝える相手がすべてALTに設定されている実態が少なからずあることも指摘した。それだとALTに紹介したり質問したりするばかりとなって、言語の働きが狭い範囲になってしまうおそれがある。また、児童・生徒が言葉を交わしたいと思う相手は、内容によって異なるのが自然で、いつもいつもALTとは限らないだろう。

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