若手の研究会で『人間形成と教育』を読んでいます。堀尾さんのまとめのおかげで,ピアジェ・遠山・勝田らの把握がより立体的になったと思います。

『教育と教育学』を読んで報告した時も思ったのですが,今回,堀尾さんの勝田守一評を読んで,勝田さんのことがますます好きになりました。一節だけ引用。

 私たちはまず自らできることを,このことをだけは果たさなければならないし,果たしてはならないということを,確かめあうことで,知識人としての責任を負わなければならない。……知識人であることを労働者でないこととして卑下するのはむしろ最大の無責任を生むもとになるだろう。組織にだけ頼るものは組織を失なうことで自分を失なうだろう。組織を無視することが誤りであると同じように,自分の知的探究に責めを負わないものが「教育の自由」を守る内発的な努力を生む気づかいは全くない

私は少なくとも,このことを思いながらこれからの仕事をしようと思う。それは,国民に共通の苦難が再び私たち知識人を試そうとして襲ってくる気配が濃厚だからである。ある意味ではすでにその試煉ははじまっている。知識人は,そのことにつねに人々よりも早く察知する感性の鋭さで,嵐の到来を予め知るある種の鳥のようであり,しかも徒に集まって騒ぎ立てず,静かにひとりでも自らに課した最高の要求に堪えなければならぬ人種である。
教師がやはりそのひとりであることによって,子どもの権利は日常的に守られるだろう
(勝田 1968 [堀尾 1991, p.96],下線は引用者による)。

「知識人」とか「人間形成」といった言葉は時代的なものとして受け容れるとして――実際勝田さんはその時代の「知識人」そのものだったのだし――,旧制高校の哲学の教師だった勝田さんの矜持に触れて,なんとなくチョムスキーの議論を思い出しました。「知識人」を任意の言葉に置き換えれば,2013年現在もまさにその「試煉」のまっただ中であるように思えてきます。