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一定の間隔で必ず「○○は褒めて/叱って伸ばせ」の類いの本が出回る(○○に代入されるのは、「子ども」だったり「部下」だったり)。Speculationの域を出るものは見たことがないし——それはこの記事にしたってそうなのだが——そもそもどっちかという問題ではないと思うのだが、いずれの主張も廃れない。

てなマクラで前置きをしようとしていたら、書きたいことは決まっていたのに、逡巡して書きあぐねてしまった。自分の考えがよくまとまっていない証拠だ。現時点のまとめとして言いたいのは、「ほめること・叱る」のいずれか、あるいは両方が大事だってことをわざわざ主張する人は、それを通じてどこに向かおうとしているのかということ。

そんなことを書こうと思ったキッカケの一つは、鈴木敏夫さん(ジブリのプロデューサー)が落合監督について語る「朝日新聞」(2011年11月2日朝刊15面)の次の記事。

…毎年、中日ドラゴンズの全試合のテレビ中継を録画して見続け分かったのは、公式戦の100試合目ぐらいまでは延々とチームづくりを続けているということです。

例えば、凡退続きの若手選手に当然代打を出すべき場面でそのまま打たせ、やっぱりダメだった、というケースが極めて多い。選手たちに機会を与え、育てているんです。それが一番成功したのが荒木、井端の二遊間でしょう。毎試合、チームづくりの過程を見るのは、映画づくりを間近で見るのと同じ喜びがあります。球団の経営陣やファンのことより、常に選手を最優先に考えている。今のプロ野球界では稀有な存在です。

ラジオ番組の取材などで直接会う機会があるのですが、僕にはこう話してくれました。「選手は繊細だ。悪口を言っても褒めてもダメになる」って。だから、マスコミの前で選手の個人名を決して口にしない。照れ屋ですから、自分の采配についても説明や弁解をしない。(後略)

鈴木さんの中日贔屓のビッキッキ!な感じは多少割り引くとしても、これを読むと、落合監督は本当に考えの行き届いた人だなあと感じる。(少なくともマスコミ等を通じた間接的な形では)ほめることやけなすことをせず、実践の結果を以て本人に気づかせることに徹しているということだ。

真意はともかく、上記引用の限りでは落合監督は選手の繊細さからそういうやり方をしているわけだが、この記事を読んで私は大西(1987: 201-203)の以下の主張を思い出し、勝手に通ずるものを感じた。

なぜ、私が教科指導や、授業において、とくに教科内容に関係しては、ほめること、叱ることでなく、「正しい」「まちがい」と評価する立場に立つか——。

「誤る」ことは悪ではない。もしそれが叱られるべきことなら、誤りを子どもたちは恐れるようになってしまう。子どもはまちがうことをいやがり、まちがうことを恐れて自分の考え自分の意見をのべられなくなり、自分の本心を表現しなくなってしまう。

小学校の教師の中には、やたらにほめる人がいる。

たしかに、子どもが弱く、小さく、教育されていない段階では、ほめることが必要で重要な段階がある。そして教育はそこからどう離れていくかの問題である。ほめる必要がなくなっていくことこそ教育なのだと私は思う。ほめることは、実はやさしいのである。しかし、まちがいを指摘することはむずかしい。だから、ほめる方ばかりをえらんでしまう。

しかし人間は、まちがうものであり誤るものである。それを克服しながら成長するのである以上、「まちがい」や「誤り」を指摘することを、教師ならやらねばならない。また、まちがいを指摘されることを恐れない生徒に育てねばならない。

そのためにも、「まちがい」「正しくない」といわれることと叱ることとは違うということを感じとらせることは大切である。

やたらにほめる教師は、子どもたちに好かれる教師にはなれるが、教科において「正しい」と評価されることと「ほめる」ことの区別を教えないことになり、ひいてはその反対の「誤り」を指摘されることを「叱られる」ことと同一視する状態から成長させない非教育に手を貸していることにもなりかねない。

もちろん、誤りの指摘をうけ入れ、悪いところを批判されることを恐れない勇気や強さは、授業において重要なだけではなく、教育一般として重要である。

しかし、授業においては、「正しいか」「正しくないか」「誤っているか」「誤りがないか」を人格や感情の次元とは違った面での「真理に対する誠実さ」の問題として受けとめる訓練をしていくことは、教科の本質を貫くうえで重要なことなのである。

それは、一点・二点の点数を気にしたり、英語や、国語の単語の一つや二つ多くおぼえているということとは、質のちがう重要問題だと私は思う。それだけに、時間をかけて、ゆっくりと知らせ、感じさせてゆかねばならないのである。

ある個人が信念として褒めることを大切にしようが叱ることを大切にしようが、それはそれで構わないのだが、要するに問題は、全体的な見通しの中でその扱いについてきちんと考えているのだろうかということ。ほめたり叱ったりを通じて、いつまでもほめられたい、叱られたい人間を育てたいのだろうか。根底にある哲学がよく分からない。

このことを書き留めておこうと思ったもう一つのキッカケは先日、ゼミで評価論の話をしたこと。後半に、かけっこ(の順位)をどう評価するかを例に態度主義の問題を取り上げて、「評価は『ある意味でくだらない』ということを含んだ上でだいじなんだ」ということ、「だから、大事なことは評価しない」という板倉(1997: 83-84)の見解について考えてもらった。

これに関して、「大事なこと以外を褒めるという姿勢がいいのかな」という感想が寄せられた。この回の評価論の話は「褒める/叱る」ということとは一応別の話だったのだが、学生がこういう感想を持つのも無理からぬことだという気はする(間違い観(の流れで「正しい/誤りの指摘」と「褒める/叱る」をきちんと区別する)については後の回に扱う予定だということもある)。そして、「正しい/誤りの指摘」と「褒める/叱る」の区別だけでなく、それを通じてどうしたいのかということが、教育のあらゆる側面で「頑張った姿勢を評価してあげたい/して欲しい」と考える学生が相当数いることと関係しているように思う。

なんか、だいぶ舌足らずだけど。とりあえず。