[雑感][旧記事] その研究は何のため?

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と,また挑発的なタイトルを付けてみる。研究の目的論。

■タテ糸・ヨコ糸・ナナメ糸

学生の頃,佐伯胖先生が集中講義に来てくれた。青山学院大学に移られて『幼児教育へのいざない』(東京大学出版会)をメイン・テキストとしての集中講義だったのだが,

に書かれているような研究論を話してくれた。上掲書の「第1章 おもしろい研究をするには」に書かれているのは,どんな分野のどんな研究にもタテ糸・ヨコ糸・ナナメ糸があるという話(佐伯, 1986, pp. 1-33)。いま読んでも面白いので,未読の若手は図書館へ走るとよい。走れ,ワカテ。

  • タテ糸: それぞれの研究テーマに関する過去から未来へ向けての研究の歴史的流れ
  • ヨコ糸: 異なる分野での同じような考え方,理論,モデル,主張
  • ナナメ糸: それぞれの時代のそれぞれの考え方に対する「批判」の流れ

この集中講義で私は,つまらない研究に対して浴びせるという”So what?”という伝家の宝刀を知ったのだが,それ以来,心の中以外でこの刀を抜いたことはない(たぶん)。

ただ,英語教育系の学会に出るようになって何度も何度も心に浮かんだのは,この”So what?”だった。教育学系の学会でも勿論それは無いわけではないが,少なくとも当時私が参加した分科会では,”How did you do that?”とか”Why would you say that?”と訊きたくなることはしょっちゅうでも,”So what?”と思うことはそれほど多くはなかった。

これには当時の私の知識不足もある。例えばSLA研究は基本的に,第二言語(この場合,Second language (L2)という言い方で,First language(L1)以外の全ての言語を指す)を習得するメカニズムを研究しているのであって,教える内容や方法の研究をしているわけではないから,そこに文句を言ったって始まらない(はずが,取ってつけたような”pedagogical implications”が最後にあってイラっとすることシバシバ…というのはまた別の話)*1。”So what?”が発動されるのは,目の前の研究が,「最終的に何を明らかにしたいのか」という研究の目的とかみ合っていないか,それが(見え)無い場合であって,自分にとってその研究が面白いかどうかとは関係ない。

しかしながら,ただ単に私の知識不足というばかりでもなく,そういう場合,つまり佐伯(1986)の言うタテ糸・ヨコ糸・ナナメ糸が十分に織り上げられていない場合も事実,少なくなかった。「先輩や指導教員がやっているから(ちょこっと条件を変えてやってみた)」であるとか,「たまたま読んだ論文がそういうやり方をしていたから」であるとか,そういうケースである*2。

■個別課題と基本的課題の関係は見えているか

この”So what?”問題を,

の言葉で整理すれば,それは,「その個別課題がどういう基本的課題に属するものなのかが見え(てい)ない場合」か「その個別課題が基本的課題につながらない場合(≒総合課題の段階)」に発生するのだと言える(以下,田中, 1988, pp. 22, 63, 69。詳細な定義は省く)*3。

  • 個別課題: その研究成果が一編の報告や論文としてまとめられていくようなもの
  • 基本的課題: 個別課題が解決されていくに伴って,次第にその解決をみていく規模の大きい,いわばLサイズの研究課題
  • 総合課題: いくつかの個別課題を集めた課題であって,かつまとめの中心をなす課題が個々の個別課題の研究過程の内容を制約するまでには至っていないもの

それ故,中部地区英語教育学会の研究法セミナーで浦野研先生の話を初めて聞いた際,「常に全体像への意識を失わ」ず,「『英語教育』という地図があったとしたら、自分の研究活動が何丁目何番地で行われているのかを認識する」ことの重要性を説かれていて心の底から得心した覚えがある*4。

研究手法・手順を身につけるために先行研究の内容・方法を踏襲することはもちろんあって然るべきなのだが,ナナメ糸もタテ糸もなく基本的課題の影も形もない発表を見ると,「あなたの研究(者人生),それでいいの?」と首を傾げてしまう。最近,浦野先生とreplicationの重要性を発表した際に強調し忘れたことだが,卒論・修論段階でのreplicationであっても,「何丁目何番地で行われているのか」の把握は絶対に必要だ。むしろその認識が欠けたところに妥当なreplicationはないだろう。

■「10年はもつテーマ」

に,「10年はもつテーマを博士論文には選ぶように」という話がある。それは,

大きな枠としてのテーマ設定が10年もつような奥行きがあるということは,そのテーマ設定が,多くの人々が本質的な問題,難しい問題だと思うような問題にからんでいて,そのテーマを考え続けるとその本質的な問題に多角的に取り組める,ということである。それは,その分野の理論的な深みのある問題に関連している(伊丹, 2001, p. 135)。

私自身は,当時はむしろ逆風が吹いていた文法指導――詳しく言うと(語用論的側面を考慮した)文法的能力を形成する領域の教育内容構成――をテーマに選び,その内容構成・教材構成に関する理論的・実践的問題であるとか,コミュニケーション活動との(カリキュラム上の)連関であるとか考えなければならない問題は山のようにあり,ちょうど10年経ってようやくスタート地点に辿り着けたのかどうかという具合だ。「だが,それがいい!!」(花の慶次)

まとまりの悪いこの記事は,「文献の選び方・辿り方読み方」に対する引き続きの部分的回答であり,これから大学院へ進む人への叱咤激励応援歌(のつもり)(to be continued…)。

*1 動物行動学者ティンバーゲンの「4つのなぜ」を援用すれば,SLA研究は至近要因(メカニズムと発達)を明らかにしようとしていると言えるだろうか。少なくとも,例えば英文法において「3単現の-s」が(コミュニケーション上,あるいは思考上)どういう機能を果たしているかであるとか,なぜ英語は「3単現の-s」を持つ形に至ったかといった究極要因の説明をくれるわけではない。納得の行く答えが得られるかどうかはともかくとして,それは英語学や歴史言語学を参照すべき話だ。

ただ,チョムスキーの立てた3つの基本的な問いを「第二言語」に当てはめて見るならば,(ii)を論じる際,(i)の吟味は十分に行われているのかだろうかと思わなくもない。まあ,これも別の話としておこう。

  • (i) 言語の知識を構成するものは何か。[What constitutes knowledge of language?]
  • (ii) 言語の知識はどのようにして獲得されるのか。[How is knowledge of language acquired?]
  • (iii) 言語の知識はどのようにして使用されるのか。[How is knowledge of language put to use?](Chomsky, 1986, p. 3;福井(編訳), 2012, p. 178)

*2 それは少なくとも私が育った環境では理解しにくいことだったが,そちらの,ある意味で「なんでそれをやりたいか」しか無いような側では,根拠や手法に難のある自分勝手な卒論・修論がたくさん生み出されていたので,どっちがいいということは言えない。

*3 少し話はズレるが,これまでの経験では,個別課題――しかも単独で見ればそこそこ面白かったりする――はそれなりにあっても博士論文としてまとまっていかない場合,それは,基本的課題との関係がきちんと整理されていないためであることが多い。…と書くと,博士課程に進んだばかりの院生さん辺りは「先に大きな絵を描かなければならない」と思い悩んでしまうかもしれないが,そうではなく,「個別課題から出発する要素的研究過程の積み重ねが,基本課題の出現とその解決の条件を次第に準備していくのである」(田中, 1986, p. 145)。つまり,目の前の作業に(その意味を考えながら)一つずつ取り組んで,一歩ずつ研究を進めて行くしかないってことで…おっとブーメランが全方位から痛い痛い,ギャフン。

*4 佐伯 (1986, pp. 10-11)は次のように述べている。

 さて,研究の基礎修練というのは,こういうタテ糸,ヨコ糸,ナナメ糸の織りなす全体像をしっかりつかみ,どんな論文からも,自分なりの視点からみて重要なポイントを読み取れるようになることである。そして,おもしろい研究というのは,この研究者自身の見るタテ,ヨコ,ナナメの糸がはっきりと他人に見え,それらに新しいインパクトを与える研究なのである。ただし,タテ,ヨコ,ナナメの従来の流れに安易に「沿った」研究ではない。従来の流れに対抗し,反逆し,どんでん返しをくらわせる研究こそが,真に「おもしろい」研究なのである。

一方,タテ,ヨコ,ナナメの全体像のなかに自分の研究を位置づけるというのは,ある意味では,自分の研究を「相対化」することである。やみくもに拡大解釈したり,一般化しないで,自らの研究の及ぶ範囲をはっきり限定することである。しかし,それだけに,意味するところが明確であり,問題意識がしぼられ,インパクトがはっきりと見えてくるのである。

わが国の研究には,そういう自らの理論や立場を相対化できている研究がきわめて少ない。自分の立場だけに固執した,自分の仲間だけにむけての研究であったり,相互に網目のように結びついているタテ,ヨコ,ナナメの糸を一切無視して,当面のトピックだけを「切り取って」きたような研究が多い。したがって,問題意識が希薄なのである。「どうしてもこう考えるべきだ」という必然性の脈が見えない。なぜそういう研究するのかの理由が見えないままに,「ただやってみました」というだけのことになっている。つまり,研究の意義の広がりが見えない。「闘う相手」が見えない。たとえ本来はおもしろい研究になり得る内容を含んでいても,焦点がぼけていて,おもしろさがうきぼりになっていない。これは,研究者の「研究の動機づけ」が希薄だからではないだろうか。

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