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読み終わるまでに思っていたよりもはるかに時間を要した。

帯に「英語教育をマジメに考えるのであれば、一度はくぐり抜けておきたい論考の数々」とある。今の私には一つひとつ立ち止まって思案してしまうことが多く、「くぐり抜け」るのは簡単なことではなかった。その意味でずっしり重たい一冊。

特に、解説も含め、第2章「つまずく生徒とともに」の一読を薦めたい。教育学出身の立場からすると若林先生のコメニウス理解には反論せざるを得ないが、ともあれ、英語教師を志す学生・院生にはこういうものの見方考え方と怒りを(ポケットに忍ばせておくのでもいいから)どこかに携えていてほしい。あるいはせめて、こういうものの見方考え方と怒りを持った熱い人がこの世にいる(いた)のだということを知って、自分はどういう英語教師になって行きたいのかを考えてほしい。

書名となった「英語は『教わったように教えるな』」は誤解を招きやすい表現でもある。こういうことを言うと必ず、「私は恩師に教わったように教えている。それで上手くいっている」などと言い出す人が出る。ある回の授業の感想に「自分は教わってこなかったけれど、いま習って『知ってよかった』と思えることを自分の生徒に教えたい」と書いてくれた学生がいるが、ポジティブな言い方を探せばそういうことだろう。そしてそういう言い方をしないのが若林俊輔という人なのだろう。「教わったように教えるな」には、学習者のために研鑽を怠るなという意味だけでなく、安住して独善的になることへの戒めも含まれている。第4章の手島良先生の解説の言葉を借りれば、

その真意は、「今までそうだったからという理由だけで、自分も同じように行うのはやめよう。何を行うにしても、ことの本質を自分で確かめ、その本質を実現するために、日々の指導を行おう」ということである。これはもちろん「過去に縛られることなく、自由に発想しよう」ということと無縁でなく、また「あらゆる種類の自由を確保することが教育には大切である」という考え方にまで敷衍することができる(p. 177)

ということなのだ。

私個人としては、第5章「英語教育のあゆみ」が印象に残った。若林先生の英語教育史に対する造詣の深さ、というか思いについて初めて知った部分が多い。第6章で述べている通りまさに「主張を持つには勉強が必要」(p. 264)で、『英語教授法辞典』(1964)巻末の英語教育史年表作成といった経験が、のちの英語教育の隅々に及びながらも一貫した主張につながっていくのだなあと感じ入った次第。「英語教育史から何を学ぶか」や「十年、今や、十昔」は免許更新講習などで毎年配ってもいい。

今年のゼミで『これからの英語教師』を検討したが、ゼミ生は、私が学生の頃に心を震わせたようには本書を受け取らなかったようだ。だがそれでいい。私は図書館で独りで読んで勝手にウッホウッホ言っていたのだし、当時の正確な心持ちはもはや定かではない。彼らが私と全く同じように感じるのも変な話だし、それを押し付けるようなものじゃあない。好き嫌いも分かれそうな文章だ。でも、そこで展開されていた見方考え方や怒りが彼らのどこかに引っかかっていて、実践やそのふり返りを揺さぶり、「これから」の当事者になったどこかのタイミングでまた『これからの英語教師』や『英語は「教わったように教えるな」』を手に取ってみてくれると嬉しいなと思う。

こういうことを思う本はそう多くない。そういう本を上梓してくれたことについて、若林先生にはもちろん、編者の先生がたに衷心より御礼申し上げたい。