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前の記事で触れた評価に関する資料が公表された。

前回述べたことに変わりはないが、「主体的に学習に取り組む態度」について少々(結論は題にある通りなわけだが)。

この資料が公表される数日前、某市の研修の打ち合わせをしていて、「主体的に学習に取り組む態度」をどう評価するかがまさに議題となった。そもそも私は関心・意欲・態度の評価自体に懐疑的な立場なので、単元計画やパフォーマンス課題にそれをどう実装するかというのは最もタフな相談の一つだ。一方で、先生がたは嫌でもそれを評価しなければならないという現実があり、それによって、授業中に手を挙げた回数や宿題のノート提出で評価するような、無意味な関・意・態評価が蔓延っている現状はどうにかしたい。それが「主体的に学習に取り組む態度」となって、外国語の学びとは関係のない(言い方は悪いが)「育ちの良さ」評価のような様相を強めるとすればいっそうタチが悪い。

打ち合わせの際、現実的には単元開始時と途中と、最後の3時点で評価するのが落としどころだろうという話になったので、公表された資料の「4 『自己調整』を図ることができるようにするための指導」(p. 81)で同様に3時点での振り返りが提案されているのを見て「ほう」と思った。しかし、同じ3時点でも、この資料で提案されている指導例は私の考えるものとは随分異なる。端的に言ってこれではダメだろう。示されている例では少なくとも、3時点とも漠然とした目標と生徒の主観的報告のみに依存するものとなっているからである。

打ち合わせで私が提案した3時点の振り返りのやり方とその理由は次の通りである。

まず、(A)単元末に実施する活動(Goal Activity)ないしはパフォーマンス課題を提示し、生徒に目標を立ててもらう。(B)単元途中の任意のタイミングで、当該活動・課題の評価観点を示し、それまでに学習してきたことを踏まえて、目標を見直してもらう。(C)当該活動・課題実施後に、目標がどれだけ達成できたかを振り返って、次の課題をあげてもらう。

まず大前提は、具体的なコミュニケーション活動・パフォーマンス課題との対応で目標立案や振り返りを行うということだ。それなしに目標設定や「目標達成のための工夫」の記述を求めても、児童・生徒が中長期的な具体的学習展望を持っているとは限らず、持っていたとしても当該単元との関係は(特に生徒にとって)不明である。英語を用いて何をすることが求められているのかという目的が具体的になければ、最悪、目標は「がんばる」、変容の自覚は「がんばった」、その理由は「がんばったから」という、およそ評価の用をなさない三段活用的記述が溢れるだろう。あるいは、例によって生徒が忖度をしたとすれば、「もっと話せる/書ける/聞ける/読めるようにする」、「前より話せる/書ける/聞ける/読めるようになってきた」、「練習したから、先生/友だちがわかりやすく教えてくれたから/」と実質に関係なく、情緒的に書いておくだけの記述が溢れることが危惧される(できるようになった手応えを生徒が本当に感じたとすれば、それはそれで悪いことではないけれども)。そのレベルを超えて、「なぜできるようになった」かの諸要因について実質的に意味のある分析的記述ができる生徒であれば、もはや授業も不要なぐらい自律的なのではないか。

その上で3時点が必要となる理由だが、(A)と(C)の2時点だけでは、目標設定行為がたとえ「主体的」でも、求められる活動・課題と関連性を持たない目標をはいまわる可能性がある。一方、(B)と(C)の2時点だけでは、教師に与えられた観点で振り返っているだけになりかねず、「主体的に…取り組む」を満たさない。示されている例では、「がんばって話す」や「ちゃんと質問する」は「漠然とした目標」なので、「学習の途中段階」で

  • いつも同じ表現になってしまうので、友達が使っている表現を聞いて真似する。
  • 相手が話したことについて質問するときは,Why?以外の質問をするようにする。

といった記述内容を紹介して「生徒の変容を促す」とある。しかし、具体的なコミュニケーション活動・パフォーマンス課題との対応がなければ、なぜこうした記述が良いと言えるのかを判断する基準がない。とすれば、結局生徒は忖度をして、教師から与えられたこうした記述を受け入れるだけにならないだろうか。全員がお互いの真似をするという目標を立てた時、真似されるべきモデルは誰がgiveするのか。単元・学期末の「Why?以外の質問ができた」とか「Why?以外の質問はできなかった」といった「変容の自覚」にいったい何の意味があるのか。生徒がそれを判断するためには、具体的な活動・課題に照らしてその観点が妥当であり、単元の中に、Why?以外の質問をするための表現を学んだり、それを使用したりする機会が用意されていなければならない。

資料で示されている枠組みでは、せいぜい「学習の途中段階」の教師の指導が優れたものだった場合にマシな観点での振り返りが行われる程度だろう。悪くすれば、(a)「たくさん挙手・発言をする」→ (b)「たくさん挙手をして、相手が話したことについて質問する。友達の表現を真似て、いつも同じ表現を使わないようにする」→ (c)「前よりもたくさん挙手・発言ができるようになった。友達の発言を真似たから」という、ヒドい関・意・態評価の自己報告バージョンが成立しそうだ。最悪だ。

だから、「主体的に学習に取り組む態度」について生徒に振り返りをしてもらいたければ、具体的な英語によるコミュニケーション活動・パフォーマンス課題(の系列)を整えることが先でなければならない。

さらに観察としては、例えばインタビュー活動・テストなどで、対話を継続しようとしたり、求められる以上の、「プラスワン」の情報を置いたり引き出したりする言動が見られれば、それは「主体的に学習に取り組」んでいると評価していいだろう、という話を上述の打ち合わせでは行った。

ところで、学習指導要領の「領域別の目標」及び「内容のまとまりごとの評価規準(例)」(pp. 33−34)を見ると、外国語の「主体的に学習に取り組む態度」は、「外国語の背景にある文化に対する理解を深め、Xに配慮しながら,主体的に英語でYしようとしている」という記述になっている。Xには技能に応じて「話し手」、「書き手」、「聞き手、話し手」、「聞き手」、「聞き手、読み手、話し手、書き手」が入り、「Yしよう」には「話されることを聞こう」、「書かれたことを読もう」、「伝え合おう」、「話そう」、「書こう」が入る。

この規準が、公表された資料の時点で既に破綻していることを示すのが、例えば次の「話すこと[やり取り]」の具体例である。

  • 外国の人に「行ってみたい」と思ってもらえるように、町や地域のことについて、事実や自分の考え、気持ちなどを整理し、簡単な語句や文を用いて伝えたり、相手からの質問に答えたりしようとしている。

この記述のどこが「外国語の背景にある文化に対する理解を深め(ようとする態度)」に対応するのか、読み取れる人がいるのだろうか。ここに登場する「外国の人」(って何だよ、と思ってしまうわけだが)は、聞き手であり、質問をする話し手である。この人にその町や地域に「『行ってみたい』と思ってもら」おうと「配慮しながら」(既に来て、目の前にいるのでないとしたら、この『外国の人』はどこにいて、話し手とどういう関係にあるのだろうか…)、「町や地域のこと」を「主体的に英語で伝え合おう」としてほしいことは理解できたとしても、どこで「外国語の背景にある文化に対する理解」は深まるのだろうか。「外国の人」相手に「町や地域のことについて」「『行ってみたい』と思ってもらえるように」やり取りしていれば、その過程に「外国語の背景にある文化に対する理解」を深める機会があるという理屈を成り立たせるためには相当アクロバティックなこじつけが必要で、相当アクロバティックなこじつけが必要な時点でもう、規準の具体例として破綻している。

前の記事で言及した「AIに関する記事を読んでペアで意見交換をする」というパフォーマンステストに至っては、以下の「(自分の考えを詳しく述べたり、効果的に引用したりしながら)3つの条件を満たしてやり取りしようとしている」ことが「主体的に学習に取り組む態度」の規準とされているのだから、「外国語の背景にある文化に対する理解を深め」ようとしているかどうかなど評価しようもない。読んだものを引用しただけで「背景にある文化に対する理解」が深まるなら、異文化理解教育の先生がたのあらゆる営為や努力が無に帰すだろう。

  • 条件1: 読んだ英文を引用するなどしている。
  • 条件2: 自分の考えたことや感じたことなどを理由とともに述べている。
  • 条件3: 相手の考えを求めたり,話題を広げたり深めたりしながら対話を継続している。

と書くと、私がこの資料の不備をあげつらっているように読めるし、実際(4月以降、おびただしい数の先生がたを混乱に陥れそうという怒りから)そうなのだが、私はこれを、「育成を目指す資質・能力の3つの柱」を全教科に強引に当てはめたことの当然の帰結であり、それに対して外国語科が「主体的に学習に取り組む態度」の評価をある意味で諦めたのだと解釈する。

事例5(p. 79〜)の1.で示された「基本的な考え方」の記述はいかにも苦しく、以下の文は日本語としてもほとんど意味不明だが、「『思考・判断・表現』と対の形にしている」理由は、そうまでしても「思考・判断・表現」、つまり「コミュニケーションを行う目的や場面、状況」に応じた言語使用活動を中心に置きたいという意思の表れだろう。それは、実質的には前の記事で注文した重み付けと変わらない。

(「主体的に学習に取り組む態度」の留意点の—–引用者)①〜③について、学年の評価規準は、外国語の目標に即して設定している一方で、単元の評価規準では、授業中の言語活動やパフォーマンステスト等で実際に見取ることができる規準となるよう、「思考・判断・表現」と対の形にしている(p. 79)。

つまり、この資料から読み取るべきは、「主体的に学習に取り組む態度」のためにアクロバティックなこじつけに腐心するより、「思考・判断・表現」を適切に評価できるようなコミュニケーション活動・パフォーマンス課題を整え、それができるようになる(のに必要な知識・技能を身につけられるような)授業を単元レベルで構想・展開しよう、ということである。

どう、この主体的に資料を読み取る態度。不遜ですか。そいつは失礼。