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前の記事([本037] チェン『未来をつくる言葉』)に対して、羽藤先生(京都工芸繊維大)から以下のコメントをもらった。

これに対する返信のまとめ、あるいはいま私が考えている英語科の教科目的論の展望(故に、だいぶ専門的)。

学校教育の一環としての外国語(英語)教育の目的論を編み直そうとしている。コミュニケーションに資する英語運用能力を身につけなくていいと思っているわけでは勿論ない。

しかし私は、留学するなどして英語を身に付けた人のような経験を、学校で英語を学ぶ者の大半は持っていないし、持たないまま学校を卒業するという事実から出発する。どうすれば羽藤先生を含め、留学して外国語を身につけ教えている人たちが経験したような、異なる言語、異なる価値観との接触で自他を相対化する視点を得られるのか。

さらに、例えば

のような論稿が日本の英語教育界の議論(『英語教育』誌などに)に全然持ち出されないのはなぜかということを考える*1。

一つには、日本の英語教育界隈で「活躍」する人たちの研究上の偏りがある。もう一つには、上の論文で理念化されていること(あるいはCanagarajahあたりがインドを例に語ること)が、日本では多くの人にとってまだまだアクチュアルな事象とはみなしにくいということが事実としてあるだろう。実際には事象としても既に日本のあちこちに散在するわけだが、それが多くの人には見えない。

この状況で、換骨奪胎したCEFRの枠組みを利用して、4技能の実用的な習熟のみを求めているのが現行の学校英語教育であるが、教科目的論としてはそれ(だけ)ではうまくいかないと考える。就職や留学等の外的な動機づけに訴えない限り、あるいはそれに動機づけられていない限り、大半の学習者はそこから降りてしまうからだ。

だからこそ小中高の先生がたは、そこに内容的魅力や、他者との関係性などの調味料をまぶして何とか口にしてもらおうとするのだが、それが(羽藤先生が言及してくれた上掲の記事で)私が批判する「コミュニカティブごっこ」をもたらす要因にもなっており、それによってコミュニケーションに与えられる害悪こそが深刻だと考えている次第である。ここのところ書いてきた対話編などに滲ませているのは、学習指導要領こそがまず「(言語的)コミュニケーション」とは何で、教科教育としてその内の何をどこまで求めるのか批判的に検討しなければならない、という学校英語教育の現状の根本的な課題だ(もう少し先に刊行される本に収録される論稿で、関連することを書いた)。

同時に私自身は、長期的にはCook *2やCanagarajah, Kramsch的言語(教育)観に基づいて目的論全体の再構築を模索しているところで、むしろ表面的な機能シラバスで4技能を伸ばすことを目的とするのをやめて、言語アイデンティティ(形成)の問題として、自己認識・他者認識・(対象)世界認識の問題として外国語教育を再考する必要があると考えたりしている。四半世紀先でも理解が得られる気はしていない。

*1 どういうグループじゃいと思われるかもしれないが、この論文に名を連ねている著者は、Dwight Atkinson, Heidi Byrnes, Meredith Doran, Patricia Duff, Nick C. Ellis, Joan Kelly Hall, Karen E. Johnson, James P. Lantolf, Diane Larsen–Freeman, Eduardo Negueruela, Bonny Norton, Lourdes Ortega, John Schumann, Merrill Swain, Elaine Taroneという具合で、この分野にいる者なら何度も見たことがある顔ぶれだろう。実際この論文は、周辺領域や様々なアプローチを包括しつつ、これまでの外国語教育研究史を整理した概説の趣もあり、多くの人が目にする機会を作るためにも、時間を見つけて訳しておこうかと思っている。

*2 『現代思想2020年4月号』の論稿で阿部先生(東京大)が、「CEFRの背後にも母語話者のモデルが見え隠れする」(p. 88)と指摘しているが、実際、Cook (2011)がその点を指摘・批判している。CEFR (Common European Framework of Reference for Languages、ヨーロッパ言語共通参照枠)は、「言語共通」とある通り、元々は英語に限らず、ヨーロッパ圏内で成人学習者が生活し、仕事をしていく上で必要とされる言語能力を開発する目的で作られたシラバスだが、その基盤は「母語話者の能力の確実な記述」にあるからだ(Cook, 2011, p. 149)。